いよいよ完結する朝ドラ「風、薫る」(NHK)。りん(見上愛)のモチーフ、大関和は昭和7年まで生きた。作家の青山誠さんは「大正期の和はスペイン風邪に感染したりリウマチを患ったりして看護の現場に出ることはなくなっていたが、みずから代表を務める看護師会の内弟子たちに最後の勇姿を見せた瞬間があった」という――。

※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。

1919(大正8)年、61歳ごろの大関和
提供=医療法人知命堂病院
1919(大正8)年、61歳ごろの大関和

65歳になった大関和と関東大震災

大正12年(1923)9月1日の正午近く、明治以降の日本では最大規模の被害をもたらした関東大震災が発生した。このとき、“楽隠居”の大関和おおぜきちかは非番の看護婦たちと一緒に昼食の準備をしていた。リウマチがさらに悪化して手先が強張り、包丁を握るのが辛くなっていたのだが、台所に立って“娘”たちに料理の作り方を教える。教えることは看護婦の仕事だけではない。家事や料理、言葉遣い、礼儀作法、等々。どこに出しても恥ずかしくない“娘”に育てるために、伝えねばならないことがまだいっぱいある。当分は温泉地に引き籠ることはできないと、嬉しさ半分の苦笑いで口角が上がる。

さて、食事の準備を終えて食卓に着こうとしていたその瞬間、凄まじい地鳴りがして木造の家屋が上下に激しく揺れた。食卓から落ちた食器が畳の上を転げまわり、和はたまらず尻しり餅もちをついてしまう。しかし、揺れが収まるとすぐに、「行きますよ」そう言って立ちあがった。日比谷公園の群衆雪崩事故のときに見せた勇姿が思いだされる。こういったときには肝が据わって本当に頼りになる。武家の娘という出自のせいか、それとも看護婦としての使命感によるものか。

リウマチの体でケガ人の看護に奔走

曲がっていた背が真っ直ぐ伸び、杖つえも持たずにスタスタ歩きだす。外から悲鳴や怒号が聞こえてくる。あれだけ凄まじく揺れたのだから、怪我人も大勢でたはずだ。救護を待っている人がいると思うと、じっとしてはいられない。足腰の痛みもすっかり忘れている。久しぶりに看護服に着替え、救護鞄かばんを抱えて外に出る。と、そこには驚くべき光景が広がっていた。建物は倒壊し、火事が発生しているのか煙や焦げ臭い匂いが充満している。

呆然と立ちすくむ看護婦たちを叱咤し、瓦礫をどかし臨時の救護所を設置した。そこに怪我人が続々と運ばれてくる。看護婦たちにテキパキと指示を出して迅速に応急処置をおこなう。和が看護婦として見せた最後の姿だった。それは弟子の看護婦たちの目にもしっかりと焼きつけられ、伝説として語り継がれてゆくことになる。

関東大震災では火災の被害も甚大で、東京市中では22万1718棟の建物が焼失している。大関看護婦会が所有していた4軒の木造建築も、地震の揺れに耐えて倒壊は免れたのだが、その後に起きた火災によってすべて焼失した。植村正久の富士見教会も焼け落ち、矢嶋楫子が学院長をしていた女子学院の校舎は甚大な被害をうけている。

関東大震災で倒壊した浅草の凌雲閣
関東大震災で倒壊した浅草の凌雲閣、1923年(『日本建築学会構造系論文集』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

大関看護婦会に金銭的余裕はなかった

大関看護婦会を再建するために、新たに家を借りて家財を揃えねばならないのだが、和には蓄えがほとんどなく、借金も多く抱えている。当時は15円程度で取引されていた電話加入権が唯一の財産で、無一文に近い状況だった。

大関看護婦会の創設当初は、有力者からの寄付などで現在の貨幣価値にして億の数字になる金が集まったといわれている。富裕な上客を多くかかえて実入りもよかったが、同時に出費もまた多かった。寄宿舎にはいつも大勢の内弟子がいて、その衣食住すべてを和が賄まかなっていたという。また、困った者を見ると財布の有り金をすべて貸し与えて、返済を催促するようなこともしない。踏み倒されたことも多々あるが、まったく気にしていなかった。

震災後、千代田区の靖国神社境内に建てられた仮設住宅
震災後、千代田区の靖国神社境内に建てられた仮設住宅、1923年(画像=「THE RECONSTRUCTION OF TOKYO」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

和自身の金遣いも荒かった

本人の金遣いも荒く、近所にでかけるにも人力車を乗りまわす。夕食は尾頭付きの魚がないと気に入らない。お金に頓着しないというか、金銭感覚がおかしい。看護婦としての能力は凄かった反面、人としては欠落したところが多々あり。“普通に”暮らすのは難しいのかもしれない。

「金は天下のまわりもの」

それが口癖。富裕層のお得意様から高価な着物や装身具などを貰うことも多かったが、それらもすぐに質屋に入れて金を借りる。いくら借りたのか、本人もよく覚えていない。

中村屋の相馬愛蔵がバックアップ

そんな和を心配して支援の手を差しのべる者は多く、彼らの助力もあり大関看護婦会は本郷弓町に移転してなんとか再建することができた。なかでも最も手厚い支援の手を差しのべていたのが相馬愛蔵だった。彼は本郷のパン屋「中村屋」を買い取って商売を始め、日本初のクリームパンを販売して大ヒット。明治40年(1907)には新宿に喫茶室や食堂を併設した新店舗も完成し、実業家として名を馳せるようになっていた。和を尊敬してやまない愛蔵は、大関看護婦会が本郷弓町に転居してからも、お土産のクリームパンを大量に抱えて頻繁に訪問している。

大関和と親しかった実業家の相馬愛蔵
大関和と親しかった実業家の相馬愛蔵(1870~1954年)、1910年代(写真=中村屋公式サイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

昭和4年(1929)の暮れに脳溢血を起こして倒れてからは、ひとりで起きあがることが困難になっていた。同居する内弟子たちに世話されながらの寝たきり生活だったが、持ち前のポジティヴな言動や、天真爛漫なお嬢様気質は変わらない。愛蔵がいつも持ってくるクリームパンは大好物。内弟子たちと一緒に「美味いしいわね」と言いながら頰張り、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

昭和7年、73歳でこの世を去る

現役を引退してからはもう長い月日が流れている。華族や資産家といったかつての優良な顧客との縁は薄れて、看護婦会の経営は厳しくなっていた。以前にも増して金に困っているようなのだが、そのことには一切触れてこない。しかし、長いつきあいの相馬愛蔵はすべてを察している。和の枕元で話しながら財布の有り金を抜き取り、そっと布団の下に押し込んで帰るのが常だった。

そして、昭和7年(1932)5月22日、和は静かに息を引き取る。享年73。

訃報は新聞やラジオでも伝えられた。全国から届けられた花輪が、大関看護婦会のある道沿いにずらり、何十メートルにも渡って延々と並ぶ様は壮観だったという。葬式の当日には付近に人垣ができるほどの弔問客であふれ、札束で風呂敷がいっぱいになるほどの香典が集まった。和を慕う人々がそれだけ多かったということだ。

桜井看護学校時代の大関和
提供=医療法人知命堂病院
桜井看護学校時代の大関和(写真前列右から2人目)、鈴木雅(前列左から2人目)。和は約35年、看護婦として働いた

約1200万円の借金を残したが…

生前の借金を数えたところ3000円に達していた。昭和初期の1円の価値は、現在の4000円に相当するという試算がある。とすれば、当時の3000円は1200万円ということになる。かなりの大金だが、香典で生前の借金がほぼ清算できたとか。「金は天下のまわりもの」。いずれは自分のところに戻ってくる……と、和が生前に言っていた通りになった。苦しむ人々を救うことに費やした人生、それが報われた結果だったともいえる。

「慈愛」は代償や感謝を期待せず、ただひたすら相手のことを思って尽くす自己犠牲の精神。だが、普通の人がその心境に到達するのは難しい。利益を欲する打算、褒められたいという承認欲求といった不純物がどこかに入り込んでしまうものだ。

なぜお嬢様気質の和は愛されたのか

青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)
青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)

和にはそれがない。苦しむ人々に寄り添い、彼らのために奔走しつづける。まわりの空気や世間の常識など眼中にない。純粋すぎるがゆえ、独善や視野狭窄に陥り色々やらかすことも多かった。しかし彼女を理解しているまわりの者たちには、その欠点すらも愛すべきチャームポイント。それが和のカリスマを形成している大きな要素のひとつだった。

そのカリスマが、正式な看護教育を身につけたトレインド・ナースを日本にも普及させるのに大いに役立った。賤業と見なされていた看護婦(看病婦)という職業のイメージを払拭し、看護婦が医療現場に欠かせぬ専門職のひとつであることを知らしめる。和の強烈な個性が世間に露出することで、その達成が早められたのは間違いない。