マイホームの夢が生んだ「ニュータウン」

なにより人口減少に直面する地方自治体が人口対策として消極的ながらもタワマンを奨励していたフシもある。それは1980年代から巻き起こったバブル景気の住宅政策が結果的に失敗したという反省の側面もある。

バブル期は日本全土の地価が高騰し、サラリーマン世帯は都心部にマイホームを構えることが現実的ではなくなった。昨今、終の住処にマンションを選択する世帯は珍しくないが、当時は一戸建て住宅がマイホームの理想とされていた。

そうした庶民の一戸建てマイホームという夢を叶えるべく、住宅会社は地価の安い郊外に戸建住宅を多く供給することを計画。それらの多くは行政主導で計画されてニュータウンと命名される人工都市を生み出していった。

ニュータウンの戸建てに住み、主にお父さんが片道に2時間弱の通勤に耐えるというライフスタイルがバブル期には当たり前になっていく。

バブルは図らずも郊外化という現象をもたらし、過疎化に悩まされている地方都市ではチャンスとばかりに子育て世帯を中心に移住促進の旗を振った。広々とした戸建住宅が格安で手に入ることに飛びついたファミリー層は決して少なくない。

バブルは1980年代末には終焉していたが、1990年代に入っても余熱は残っていた。というよりも、「一時的に景気が停滞していても、すぐに景気はよくなる」というバブルの熱狂を忘れられない人が多く、それは自治体も住宅会社も同じだった。

「灰色の街」から一変した武蔵小杉

しかし、バブル崩壊から10年前後が経過すると、さすがに現実を直視せざるを得なくなる。それと同時に、少しでも都心部に住みたいという需要が増えて都心回帰が加速した。東京の都心部は商業的価値が高いため、それまでオフィスや商業店舗といったビジネス利用が大部分を占めていた。住宅地に割く余地はない。

そこで最初に白羽の矢が立てられたのが都外ながらも東京に隣接する神奈川県川崎市だった。

川崎市は高度経済成長期に日本を代表するような企業がこぞって進出し、大規模な工場を構えた。環境問題への意識が低かった高度経済成長期、工業都市として発展した川崎は大気汚染・水質汚濁といった公害が社会問題になり、そのイメージから「灰色の街」と揶揄された。

それでも大規模工場の操業する川崎は多くの労働者を受け入れ、経済的には活気に溢れていた。高度経済成長を牽引した大規模工場の多くは歳月の経過とともに更新期を迎える。それが都心回帰タイミングと合致した。

武蔵小杉駅周辺に櫛比していた大規模工場は郊外に広い敷地を求めて移転し、広大な工場跡地にはタワマンが建設されていく。こうして武蔵小杉駅の周辺を手始めに、川崎はタワマン街へと変貌を遂げていった。

武蔵小杉駅
撮影=小川裕夫
武蔵小杉駅の駅前はかつて大規模工場が林立していたが、それらがタワマンへと変わった。駅の背後にもタワマンが立ち並んでいる(2025年8月)

武蔵小杉駅の周辺は川崎のタワマン街化を象徴する街といえるが、現在でも昔ながらの商店街も残っていて、昭和期から営業を続けている店もある。また、長らく住み続ける地元民もいる。