街のにぎわいと引き換えにある負荷
こうした局所に負荷が集中してしまうタワマンは自治体にとって社会に混乱を与える厄介な存在だが、人口増という恩恵もあるので自治体にとってタワマンを即座に否定できない部分もある。
人口の増加は住民税・固定資産税の増収に直結することが大きな理由で、それに付随して街がにぎやかになることも期待でき、街がにぎやかになることで商業店舗が増えることにもつながる。
商業的に活性化すれば、在住者だけではなく通勤・通学、来街者が街で消費してくれる。その経済的なメリットも大きい。
こうしたことを理由に、地方自治体はタワマンが引き起こすマイナス面に目をつぶってきた。
そして、それがタワマンの増大という現象をもたらしていく。大規模集合住宅はデベロッパーにとっても効率的に多くの住宅を整備できるので収益面でプラスが多い。また、高層階は資産価値が高くなることもデベロッパーにとって都合がよかった。
そして都心回帰を追い風に、タワマンは東京へと押し寄せていく。そのターゲットになったのが東京都江東区の豊洲エリアだった。
豊洲がタワマン街へと変貌を遂げる端緒は、1979年に当選した鈴木俊一都知事(当時)が7番目の副都心として臨海副都心を計画したことだった。
鈴木都知事は臨海副都心開発に弾みをつけるべく、お台場をメイン会場とする世界都市博覧会(都市博)を誘致。1996年に開催が決まっていた都市博は、後任の青島幸男都知事が中止したことで開発が一時的に停滞する。
幻の博覧会が変えた豊洲の運命
お台場の対岸に位置する豊洲は都市博中止の影響を受けることは少なかったが、それは豊洲が工場街で副都心としての開発を期待されていなかったことが幸いしている。
豊洲は江東区の最西端に位置し、中央区晴海とは晴海運河を隔てて隣接している。晴海運河には豊洲と晴海を直接的に往来できる橋がなく、両区を結ぶ道路は限られていた。そのため、豊洲は都心に近いながらも都心まで出づらいという難点を抱えていた。
豊洲の再開発は晴海運河に架橋計画が持ち上がったことから機運が高まっていく。晴海運河への架橋計画は2006年に晴海大橋として結実するが、豊洲で造船業を営むIHIは晴海大橋が完成することで建造船の荷出しができなくなってしまうことを理由にドックを閉鎖。その跡地は2006年に複合商業施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」へと生まれ変わった。
「アーバンドック ららぽーと豊洲」が誕生したことで、同地周辺の住環境が整い、それが周辺の宅地化を促していく。2008年には地下通路を介してつながる「アーバンドック パークシティ豊洲」が竣工。3棟で構成されるパークシティ豊洲は総戸数が1481もある巨大タワマンだった。こうして豊洲は短期間にタワマンの街へと走り出していく。

