残酷さは羽柴兄弟にこそ徹底していた

その後も、羽柴兄弟は三木城に続いて、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変までの2年余りのあいだに、「鳥取城の渇え殺し」と「備中高松城の水攻め」を敢行した。ともに城兵を徹底的に飢えさせ、この世の地獄を現出させた点で共通している。

鳥取城(鳥取市)では、吉川経家が切腹して城兵の命は守られたものの、飢餓状態に陥っていた城兵の多くは、秀吉が振舞った粥を食したのちに急死したと伝わる。長期間の飢餓状態ののち、胃に急に食べ物を入れたために、体内の電解質のバランスが崩れて重篤な症状を引き起こすリフィーディング症候群を発症した可能性が指摘されている。

また、備中高松城(岡山市北区)の場合は、本能寺の変で信長が討たれた直後に、それを隠して和睦したため、城主の清水宗治が切腹することで城兵の命は助けられた。だが、信長が存命だったら、どんな結末になっていたことか。

いずれにせよ、残酷さは信長父子の専売特許ではないどころか、自軍の兵さえ温存されれば、敵はどんな悲惨な状況になっても構わない、というスタンスは、むしろ羽柴兄弟にこそ徹底していたといえる。

もっとも、当時は敵に甘い顔を見せた途端に、自分が討たれかねない弱肉強食の時代だった。信長のやり方も、羽柴兄弟のやり方も、今日の価値観で批判するのは簡単だが、それでは戦国時代を見誤ってしまう。「豊臣兄弟!」に描かれている羽柴兄弟、とりわけ小一郎のように、なによりもまず人命尊重を優先しているようでは、敗北への道をまっしぐらであったことは強調しておきたい。

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