史実における三木城攻めの残酷さ
たしかに秀吉と秀長は、自軍の兵力の損失ができるだけ少なくて済む戦法を選択した。しかも、そうしたやり方が極端なまでに徹底されることが多かった。しかし、誤解してはいけないが、彼らのベースにあったのは、今日的な人命尊重の考え方ではない。目的は人命ではなく、あくまでも兵力の温存だった。
兵力の温存を優先したのは、なにも羽柴兄弟だけではない。この時代の武将は、次の戦争に備えるためにも、だれもがそれを考えた。だから、真っ向からぶつかって味方にも敵にも大きな損失が出る野戦は、可能なかぎり避けるものだった。では、なにを選択するかといえば、自軍には被害が出ない兵糧攻めや水攻め、調略による寝返り工作などである。
この点をとくに徹底させたのが羽柴兄弟だった。実際、前述の三木城も兵糧攻めの末に落城させ、たしかに、自軍の損失は最小限に済ませた。
だからといって、「豊臣兄弟!」で描かれたような、穏やかな終戦ではなかった。それどころか、信長による有岡城の皆殺しよりも、むしろ残酷な結末を迎えたといえる。
飢えた城兵の首を次々とはねた
秀吉は三木城を1年10カ月にわたって包囲した。時間はかかったが、直接的な戦闘はあまりなかったので、自軍にはあまり損失が出ていない。では、三木城側はどうだったか。周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築く臨時の城)が配置された三木城は、食料の補給路がすっかり断ち切られてしまった。その結果、「三木の干殺し」と呼ばれる地獄のような事態となった。
城内の状況は凄惨をきわめた。なにしろ城内には、別所一族のほか、家臣や別所氏に同調した武士たちとその家族、さらには浄土真宗の門徒らも籠っていた。その数、約7500だったという。食料が底をついてからは、牛馬はもちろん壁土や草の根まで食べ尽くされ、しまいには餓死者の肉まで食されたと伝わる。結果的に何千人かが餓死したといわれる。
しかも、「豊臣兄弟!」のように、秀吉が三木城を訪れ、穏やかに交渉したのではない。天正8年(1580)1月6日、秀吉は籠城者が飢え切り、多数の餓死者が出ている三木城への総攻撃を仕かけた。この状態になれば、もう城を攻めても自軍にさほどの損失は出ない。その挙句、17日に別所長治以下、叔父の別所賀相、弟の別所友之の3人が切腹した。
だが、城兵が救われたとは伝わっていない。秀吉と蜂須賀正勝が宇喜多直家に伝えた文書によれば、城兵たちは1カ所に押し込められ、皆殺しにされたという(『沼田家文書』)。秀吉が長宗我部元親に宛てた文書にも、城兵の首はことごとくはねたと書かれている。

