中年男性のファッションは、なぜ論争の対象となるのか。文筆家の御田寺圭さんは「他人の容姿や背格好などを云々することが倫理的に許されないとされているはずの時代であってさえ、『おじさん』に対してはその倫理的なコードが“ゆるく”なっている」という――。
歩道橋から道路を眺めている男性の後ろ姿
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「ハーフパンツおじさん論争」の本題

都庁のクールビズでハーフパンツが解禁となったことが注目を集めていた。それを受けてメディアやSNSではある議論が沸騰していた。すなわち「おじさんのハーフパンツは是か非か」である。

中高年男性が公共空間でハーフパンツを着用して生活することについて、暑いのだから脚を出してもいいではないか。いや、いい年をした男性の生脚など見たくない。清潔感があれば問題ない。そもそも他人の服装にそこまで口を出すほうがおかしい――など、こうした議論が繰り返されていたわけだ。

ここで重要なのはハーフパンツが是か非かどちらなのかという話ではなく、平時には他人の容姿や背格好などを云々することが倫理的に許されないとされているはずの時代であってさえ、こと「おじさん」に対してはその倫理的コードが“ゆるく”なり、人びとが好き放題に本音をぶちまけてしまっても、それでお咎めを受けることがないということだ。

あるいはハーフパンツにかぎらず最近のSNSでは、「ショッピングモールにいそうなおじさんの格好が嫌い」という話題でも大賑わいだった。ライトブルーのシャツ、ベージュのチノパン、スニーカー、縦型のボディーバッグ。いわゆる「休日のパパ」的な格好をした男性の画像が拡散され、それに対して「ダサい」「キモい」「田舎のイオンにいそう」といった言葉が、まるで当然の感想であるかのように投げつけられていたのである。

「おじさん」だと“軽口”になる

これは奇妙な光景だ。というのも、他人の容姿について、太っている、痩せている、老けている、若作りをしている、肌を出しすぎている、異性に媚びている――などと品評するそうした言葉は、ひとつ使い方を間違えれば、たちまちルッキズムやセクシズムやエイジズムとして非難の対象になるし、「そうあるべきだ」というコンセンサスが広がっていた……はずだったのだが、なぜか「おじさん」については、そのようなコンセンサスがうまく機能していないように見えるからだ。

おじさんのハーフパンツはキモい。おじさんの生脚は見たくない。見せられること自体がセクハラだ。おじさんのボディバッグはダサい。おじさんの休日ファッションは無理。おじさんが若者ぶるのは痛い。おじさんが清潔感を出そうとしてもキツい――もしこれらの言葉の主語を、女性や若者や特定のマイノリティに置き換えたらどうなるだろうか。おそらく多くの人がその暴力性に気づくはずだ。SNSなら大炎上必至だ。ところが主語が「おじさん」になると、それはなぜか単なる軽口や“あるあるネタ”として処理されてしまう。言ってもよいことになる。