一石二鳥の「おじさん叩き」
現代人は、「ただしい側」に立ちたいという欲望と、「ただしい社会」は息苦しいという不満を同時に抱えるダブルバインドに苦しんでいる。そのダブルバインドをもっとも手軽に解消してくれる存在が「おじさん」なのだ。
「おじさん」を叩くとき、人びとは「ただしい側」に立ったまま、「ただしい社会」の息苦しさを緩和することができる。なぜなら、「おじさん」は道徳的に劣位の側、すなわち「言われても仕方がない側」に配置されているからだ。
中年男性はマジョリティであり、強者であり、これまで社会の中心にいた側であり、古い価値観を体現する存在であり、配慮されるべき対象ではなく、むしろ配慮のコストを負担すべき者たちである――ということになっている。だから「おじさん」に対してなら、かなり攻撃的な言葉をぶつけても、自分の「ただしさ」は損なわれない。それどころか、「ただしさ」はむしろ増すことさえある。
ようするに、「おじさん叩き」は一石二鳥なのだ。
「ただしい自分」を維持しながら、「ただしさに縛られない言葉」を吐き出すことができる。ポリコレ社会の住人でありながら、ポリコレ社会の息苦しさから一瞬だけ逃れることができる。なぜなら相手は「おじさん」だからである。
これは現代のポリティカル・コレクトネスが、実のところ本当の意味で人間の尊厳を守ろうとしているわけではないことの証左でもある。そこにあるのは、他人の身体や属性を雑に扱ってはいけないという一貫した倫理ではなく、「だれを叩けば道徳的に許されるのか/だれを擁護すれば道徳的に善人として讃えられるのか」という“いじめ”の論理に近いものだ。
「おじさん」たちへのエール
でも、おじさんたちに私はこう言いたい。
短パンだろうが、ボディーバッグだろうが、別にいいではないか。
ライトブルーのシャツにベージュのチノパンでも、別にいいではないか。
それは、休日に家族と出かけ、子どもの手を引き、荷物を持ち、家計を支え、毎日の生活を回しているパパたちの平均的な服装である。最先端のファッションではないかもしれないが、家族を養い、生活を引き受けている人間のリアリティがそこにはある。素晴らしいことだ。少なくともネットの片隅で「世直し」気分になって、見知らぬ中年男性の服装にガタガタ言っている人たちよりは、よほど社会のためになっている。いつもお疲れ様です。
だから言っておく。おじさんたちはそんな言葉にまで真面目に付き合わなくていい。少しだけ格好よくなりたいなら、そうすればいい。いまのままで十分だと思うなら、それでもいい。愛する人たちが、気の置けない仲間たちが、「いまのあなたでも素敵だ」と言ってくれるのなら、あなたはそのままでいい。
私もこの夏は短パンにボディーバッグで胸を張って街を歩くつもりだ。ほかでもない「おじさん」のひとりとして。


