他人を値踏みしたい欲望

私たちはいま、他人を雑に品評することが許されない社会を生きている。顔がどうだ、体型がどうだ、服装がどうだ、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうか、収入がいくらか、どんな仕事をしているか――そうしたスペックやステータスをめぐる不用意な発言は、以前よりもはるかに強く忌避されるようになった。

だが人間は、それほど簡単に「他人を値踏みしたい欲望」から自由になれるわけではない。むしろ、表立って言ってはいけないことが増えたぶん、その欲望は行き場を失いフラストレーションを生じさせている。だれかを見下したい。だれかを笑いたい。だれかを「自分より下」に置いて安心したい。けれども、それをそのまま口に出すことは、いまやリスクが高い。

……そう、そこで登場するのが「おじさん」である。

革のボディバッグのジッパーを開けている男性
写真=iStock.com/Petr Smagin
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ガス抜きとしての「おじさん」

「おじさん」は現代社会における奇妙な安全地帯になっている。他人の容姿や年齢や服装や生活感を笑うことが厳しく戒められる時代においても、なぜか「おじさん」だけは例外的にいじっていい対象として扱われているのだ。「ポリティカル・コレクトネス」な規範が覆い尽くす時代に息苦しさを覚えている人びとが、その規範に抵触しないギリギリの場所、ガス抜きの方法として「おじさん」を見つけてしまった。

「おじさん」には好きに言っていいという空気を後押しするのは、「おじさん」に対する暗黙のナラティブが社会に共有されているからである。おじさんは強者である。おじさんは既得権者である。おじさんは加害者側である。おじさんはこれまで好き放題やってきた存在である。だから多少笑われても仕方がない。多少キモいと言われても、ダサいと言われても、どうせ社会の中心にいるのだから、それくらい受け流すべきである――といったナラティブがだ。