「おじさん」は「強い側」として扱われる

ただし留意しておきたいのだが、これは単に「おじさんだけがポリティカル・コレクトネスの例外になっている」という話ではない。むしろ逆で、「おじさん叩き」は、ポリティカル・コレクトネスに照らせば「ただしい行動」そのものであるということだ。

現代の道徳コードにおいては、社会的マジョリティはしばしば「加害者側」として位置づけられる。強い側。持っている側。支配してきた側。傷つける側。配慮すべき側ではなく、配慮を求められる側。言葉を向けられる側ではなく、言葉を慎むべき側。そうした道徳的な座標軸のなかで、「おじさん」すなわち中年男性は「マジョリティ」の最たる存在として扱われる。

「おじさん」は男性である。年長者である。会社や組織のなかでは管理職側にいることが多い。家庭においても父や夫という立場にあることが多い。政治、経済、企業社会、地域社会、メディアなど、さまざまな領域で「これまで中心にいた側」と見なされやすい。さまざまな要素が、彼らを強者であり権力者であり抑圧者であることを示す。もちろん個々の中年男性が本当に社会を思い通りに動かしてきたわけではない。

実際には、住宅ローンに追われ、教育費にため息をつき、職場では上からも下からも突き上げられて疲弊し、家庭では責任だけを求められ、老後不安を抱えながら毎日の不安を酒でごまかす、そんな日々を送っている人も少なくないだろう。

オフィスでノートパソコン、書類を広げたデスクで電話をかけている中年男性
写真=iStock.com/Svitlana Hulko
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「強者へのツッコミ」になる

しかしポリティカル・コレクトネス的な道徳地図の上では、そうした個別事情はあまり考慮されない。彼らは「中年男性」という属性を持っている。それだけで、いったん強者側に分類される。マジョリティ側に分類される。加害者側に分類される。だから、彼らに向けられる攻撃的な言葉は、しばしば「上に向かって投げている言葉」として処理される。ようするに大目に見られる。だから遠慮なく言う。おじさんのハーフパンツはキモい。おじさんの生脚は見たくない。おじさんのボディーバッグはダサい。おじさんの休日ファッションは無理。

こうした言葉は、表面的には明らかに外見や属性への攻撃である。だが、それが「おじさん」に向けられた瞬間、それは弱者いじめではなく、強者へのツッコミになる。差別ではなく、権力批判になる。侮辱ではなく、社会の中心に居座ってきた男性たちへの“カウンター”になる。「正義」のガワを被ってしまいさえすれば、自分の偏見や加害性をぶちまけてもゆるされる。「おじさん叩き」はポリコレの例外なのではなく、ポリコレの正道なのである。