なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか。元・東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「史料に残されているのは誰かの行動やその場の経過であり、光秀の心の中までは書かれていない。光秀の動機を解明するのは物語の領域だからこそ、いまも多くの人を惹きつけている」という――。

※本稿は、本郷和人『東大教授、日本史の謎を語り尽くす』(宝島社)の一部を再編集したものです。

織田信長像
写真=Wikimedia Commons
織田信長像(画=狩野宗秀/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信長を滅ぼした「黒幕」を探す物語

本能寺の変は、日本史でもっとも有名な事件の一つです。1582年6月、織田信長が家臣・明智光秀によって討たれました。犯人ははっきりしています。それでもなお、「なぜ光秀は主君を討ったのか」という問いが、何百年も繰り返されてきました。

怨恨説はよく知られています。信長からの折檻せっかんや屈辱が原因だとする見方です。四国政策をめぐる対立、豊臣秀吉や徳川家康が背後で糸を引いていたとする黒幕説、朝廷関与説も語られてきました。いずれも決定的な証拠を持つわけではありませんが、「この事件には裏がある」という感覚が、私たちのどこかにあります。

信長という巨大な存在が、わずかな供回りしかいない京都で討たれた。歴史の大転換が、たった一夜で決まった。もしそれが偶然の積み重ねだったとしたら、私たちはどこか不安になります。歴史が偶然で動いたと認めるのは、少し怖い。だからこそ、黒幕や深い怨恨が求められるのです。

大きな出来事には、それに見合う大きな理由が必要だという感覚が、本能寺を物語へと押し出してきました。出来事が大きければ大きいほど、その背後にも同じだけ大きな意図や必然があってほしい。小さなきっかけや偶然の重なりで歴史が大きく動いてしまったと考えると、世界は思っている以上に不安定なものになってしまいます。私たちはそれに耐えきれず、出来事と理由を釣り合わせる意味づけを探してしまうのでしょう。

では、史料は何を語っているのでしょうか。