抑留者の消息がやっと入ってきたと思ったら
終戦後、時間がたっていても抑留先で亡くなった人は戦争犠牲者である。遺族に「戦死」として伝えるのは国の責務だ。ところが、ソ連やモンゴルにとって「西側の国」とみなされていた日本には抑留者の消息は入ってこない。
そこで当時の日本政府は、帰還船の引揚港だった舞鶴港(京都)や函館港(北海道)に上陸した帰還者から聞き取りを進める。複数の確かな証言が集まると本籍地の都道府県に連絡し、都道府県が遺族に死亡通知を出した。
とはいえ、この帰還者の証言ありきの方法は限界がある。抑留者たちはモンゴルで日中、作業現場に駆り出されている。すべての死亡者の最期に立ち会うのは難しい。死亡者の身元を一人残らず特定するには、抑留国から死亡記録の提供を受けることが必須だった。
転機となったのは、1991年のことである。強固だったはずのソ連邦の共産主義体制に陰りが見えると、ようやくソ連、モンゴル両国の政府から抑留中に亡くなった日本人の死亡者名簿が提供されたのだ。日本政府は国内に残る記録と照合して死亡者の身元を特定し、「抑留死」と認定して遺族に通知する作業に取り組んだ。
だが、この身元特定作業でもソ連一辺倒の国の姿勢が変わることはなかった。
モンゴルから外相のゴムボスレンが日本を訪れ、外相の中山太郎に1597人の抑留死亡者の名簿を手渡したのは1991年3月26日。ソ連の大統領、ゴルバチョフが延べ3万8647人の抑留死亡者名簿を持参して来日する3週間余り前のことだった。
もっと前に死亡者名簿を日本に渡せば、ソ連から「勝手なことをやるな」と反発を受ける。かといって、ゴルバチョフ来日後の提供であれば二番煎じになって資料提供のインパクトは薄れる。絶妙のタイミングだったと言える。
実際の死亡者より少ない1597人の死亡者名簿
外務省での外相会談の席上、死亡者名簿を手渡したゴムボスレンはこう語ったと、翌日の読売新聞朝刊は伝えている。
「1940年代に作成したもので不正確だが、(日本)政府の努力で正確にしてほしい」
同じ記事の末尾に日本側の反応が以下のようにある。
「今回、渡された名簿は、厚生省所有の名簿より人数が少なく、同省は他に名簿があるかどうか、同国政府に要請する方針」
厚生省所有の名簿とは、帰還者の聞き取りや国内で行った調査をもとに国がモンゴルで死亡したと判断した抑留者1684人を1966年7月にまとめた「外蒙古死没者名簿」である。
この名簿は国が把握できた死亡者だけを掲載したものだ。名簿に掲載できなかった死亡者を含めると、モンゴル抑留の死亡者は1700人台半ばにのぼると推定される。
だからゴムボスレンが持参した1597人の名簿は実際の死亡者数より少ない。そのうえ、ゴムボスレンが「不正確だ」と認めたように日本人の氏名とは思えない読み方のものが含まれていた。氏名は収容所でモンゴル人の担当者が聞き取ったものだったからだ。
だが、その後、日本政府は死亡者名簿を正確にするよう努めたり、ほかに名簿があるか、調査を要請したり、記事にあった死亡者の身元特定を進めるための努力は全くしていない。結果的にゴムボスレン持参名簿は棚ざらしにされる。

