疎外感の中で亡くなったモンゴル抑留者

日本政府を相手取った抑留者への補償請求訴訟は最高裁で敗訴するものの、判決で重労働の深刻さが認められ、立法的な救済措置が必要だとされた。そして2010年、抑留期間に応じて25万円から150万円の特別給付金を国が支給する「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立。6万8847人に計192億9855万円が支給された。

「シベリア抑留」という言葉が普及するまで使われていたのは、この法律の名称になった「戦後強制抑留」である。政府内では今でも「戦後強制抑留」を使うが、役所言葉の臭いが抜けない「戦後強制抑留」では世間の理解はこれほど進んだだろうか。

「シベリア抑留」は一方で、シベリア以外での抑留を人々の認識から消し去る副作用を生んだ。モスクワ周辺や中央アジアといったソ連領内は「ソ連での抑留」としてとらえられるのでまだいい。国が違っていた「モンゴル抑留」は、より副作用の被害が大きかった。

私が取材したモンゴル抑留者の一人は、「家では話しにくいからね」と駅前の喫茶店を面談場所に指定した。当時97歳だったが、モンゴルでの2年間を目前のことのように語る。

「最初の1年はコロコロ、死んじゃったね。遺体が10人ほどになると、大八車に入れて埋葬場所まで運ぶ。やせ細っているから、重ねたら10人でも乗せられたね」

2時間40分にわたった面談の最後、自嘲気味に語った言葉が忘れられない。

「モンゴルに抑留されたと言っても誰もわからないからね。抑留仲間以外ではソ連に抑留されたと話していたよ」

このインタビューは7年前のこと。この人はもうこの世にいない。

別に会った遺族で、モンゴルで父親を亡くした娘は寂しそうに本音を吐露した。

「父のことを子どもたちに話しても『モンゴルに抑留されたって、どういうこと』って最初から耳に入らなくてねえ」

モンゴル抑留者や遺族は疎外感の中で生き、そして亡くなっていったのである。

ソ連一本槍だった戦後処理

もちろん私は、モンゴル抑留が国民から忘れ去られた原因を「シベリア抑留」の言葉の影響力だけに押しつける気はない。国にもっと重い責任があり、戦後処理のうえでの具体的な弊害まで生んできたからだ。

抑留問題は戦後の混乱の中、未帰還者問題という形で始まる。満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島にいた日本兵らがソ連軍の捕虜となり、日本に帰ってこない。終戦後4年以上が過ぎた1950年1月現在で日本政府がまとめた未帰還者は34万585人にのぼる。

独立が回復していない中、日本政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)や国連に、ソ連が日本人を解放するよう働きかけた。ソ連政府との直接交渉にも乗り出す。1955年6月から始まった日ソ国交正常化交渉で、ソ連領内に残された抑留者の早期送還を求めた。

難航した交渉の末、時の首相、鳩山一郎が訪ソして1956年10月19日、日ソ共同宣言に調印。北方領土問題を棚上げにし、長期抑留者の帰還にこぎつけた。

鳩山一郎
当時の内閣総理大臣:鳩山一郎(在任期間1954年-1956年)(画像=Unknown author/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

しかし、こうした交渉にモンゴルに残留させられていた抑留者は出てこない。当時、モンゴルは社会主義体制で「モンゴル人民共和国」が国名だったが、そのモンゴル政府に日本政府が抑留者の送還をめぐって直接交渉したこともない。

旧厚生省が作成した「ソ連中国地域等の未帰還者集計表」(1954年5月1日現在)では「ソ連外蒙古」として未帰還者の人数をひとくくりにしている。ソ連政府に交渉すれば、モンゴル領内の未帰還者の問題も解決するだろうと見込んでいたのだ。

今も、国の遺骨収容数の統計(地域別戦没者遺骨収容概見図)では「旧ソ連邦(モンゴルを含む)」とし、モンゴルは「ソ連全体の内数」という処理が続く。抑留資料を紹介したホームページでも「ロシア連邦政府等提供資料」とモンゴル政府提供分は「等」として扱っている。