「外蒙古」という蔑称が映す政府の無関心

ちなみに「外蒙古」とは、清朝が首都の北京からの距離に応じて、モンゴル民族の居住地域を「内蒙古」「外蒙古」と分割して統治していた時の呼称である。「外蒙古」は現在のモンゴル国、「内蒙古」は中華人民共和国内モンゴル自治区で、第2次世界大戦時は日本の傀儡政権だった蒙古自治邦政府が統治していた。

中国語で「蒙」には「おろか」という意味があり、モンゴル国民は自国を「外蒙古」と呼ばれるのを嫌う。だが、当時の国の文書は「外蒙古」ばかりだ。相手が蔑称と受け取る地名を使用している点からも、日本政府がまともに取り合ってこなかった経緯が見える。

モンゴルと日本の旗
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戦後、モンゴルでは一般の日本人抑留者は2年間で帰還を許された。だが、ソ連よりはるかに人数は少なかったものの、残留させられていた抑留者は確かにいたのである。

その一人、内モンゴル地区の女子中学校副校長だった小山義士の妻、かの江は小学生だった長女、和子と長男、敬之の連名で1954年1月から4回、北京のモンゴル大使館を通じてモンゴル首相、ツェデンバルに夫の早期帰国を求めた嘆願書を送っていた。

「どうか、私達留守家族の心の内をお察しくださいまして、一刻も早く、全員帰国出来ます様、お願い致します」

悲痛な訴えが書かれた嘆願書は「外交文書」としてモンゴル外務省中央公文書館に保管されている。発見したモンゴル人研究者が教えてくれた。モンゴル政府は、かの江が嘆願書を送り続けていた間に小山を中国に「戦犯」として引き渡したうえで、「もうモンゴルにはいない」と回答を送っている。結果は夫の帰国にすぐにつながらなかったのであるが、抑留国のトップに夫の解放を直談判した妻を私はほかに知らない。

自らは生き延びて帰還していた抑留者も動く。終戦時は満洲国軍の軍医少尉で、抑留中に12か所の収容所・病院を転属させられた春日行雄は帰還者にモンゴル首相宛てに嘆願ハガキを出すことを呼びかけ、モンゴルに残された抑留者の釈放運動を始めた。

1953年12月3日付毎日新聞朝刊の投書欄に春日の投書が掲載されている。

「この際、ソ連だけを相手に交渉するのは片手落ちではなかろうか」

そう言って、モンゴル政府を相手にした解放交渉を提起している。

国家に見捨てられた抑留者たち

日本政府がソ連政府とだけ懸命な交渉を行っていた間に、モンゴルで命を落とした抑留者がいたことを私は自分の調査から知った。

1950年2月6日の参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会で、帰還者の一人で証人として出席した戦車第35連隊長の長命稔がこう証言している。

「一言申し上げたいのは外蒙古にまだ残っておる人間が6人おると思います。これは刑を受けて刑務所につながれておる人、終戦当時内蒙古におりました国境に近い旗公署(旗公署は行政機関の呼称)の職員と特務機関の派出員だと記憶しております」

長命の証言から1年8か月後、6人のうちの1人が獄中で病死した。証言を受けて、日本政府が国家としてモンゴル政府に帰還を強く求めていたら救われたのではないか……。まさに母国に「見捨てられた抑留者」だったのである。

かの江の嘆願書や春日の釈放運動の呼びかけを知った時、私はその行動力に胸を打たれた。一方で、必死な行動は、国があてにならないことの裏返しである。

当然のことだが、個人の嘆願だけでモンゴルという国家が動くわけではない。モンゴル抑留者の一人は、生前の春日が政府に対して義憤に駆られていたことを私に明かした。

「春日さんはねえ。『いつも国は冷たい、頼りにならない』と怒っていましたよ」

時を経て、動きが鈍い国に代わってモンゴル政府にぶつかっている私は、かの江や春日の気持ちが身にしみてわかる。