「悪女」でなければ人民は納得しない

書影
小林明『毒婦の日本史』(鉄人社)

もっとも仮に謀反の計画があったにせよ、築山殿と信康だけで、できるものではない。特に女性である築山殿が主導したとは到底考えづらく、彼女は周囲に巻き込まれただけだったかもしれない。

実際、天正3(1575)4月、大岡弥四郎という人物が、武田と内通したのを理由に岡崎城で処刑され、連座して切腹に処された者もいた。つまり、謀反は岡崎城の中枢にいた者たちによる共同謀議だった可能性がある。

そこに築山殿がどの程度関与したかは、藪の中だ。

ちなみに『岡崎東泉記』は、次のような些細だが、いかにもありそうな家庭内トラブルを記している。

「信康が食後、楊枝を使っていた。五徳に『母上にも楊枝を取ってあげなさい』と命じたが無視したため、信康は『躾が悪い』と五徳を叱った。五徳はむくれて父に書状を書き、信長は家康の家老に事の次第を問いただした」

事実だとしたら、家康がそばにいれば避けられた事態かもしれない。しかし、家康は浜松にいて、妻・息子・嫁の関係が微妙だと知らなかった。あるいは知っていて、知らないふりをしたか――家康の心情も薮の中である。

いずれにせよ、築山殿と信康粛清の一件が、徳川にとって後世に至るまで触れてもらいたくない事柄だったのは確かだろう。江戸時代の家康は「神君」である。“神”が妻と息子を殺したなど、正当な理由がなければ人民は納得しないゆえ、築山殿は「悪女」でなければならなかったのである。

築山殿首塚
画像=PIXTA
愛知県岡崎市の八柱神社にある築山殿首塚。首は信長が実検したのち、家康の腹心・石川数正が持ち帰って葬られたという。
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