「築山殿」という呼び名に隠された、夫婦の亀裂

そもそも「築山殿」という呼称自体が、別居を示していると考えられる。徳川の前身・松平の家伝『松平記』には、こうある。

「家康の御前(正室)はつき山と申す所に御座候、是をつき山殿と申し奉る也」

ここにある「つき山」が、築山の語源だ。「つき山」は岡崎城の北東、現在の愛知県岡崎市久右ヱ門町の辺りと比定され、つまり築山殿は城とは別に独立した屋敷を持っていたらしいのだ。

一方の家康は、岡崎城から東へ約70キロメートルにある浜松に城を築き、元亀元年(1570)から本拠地としていた。

岡崎城の城主は、息子の信康だ。築山殿も浜松に同行せず、岡崎に残った。夫との完全別居だった。

前述の於古茶の妊娠・出産は天正2年(1574)だから、家康は浜松から岡崎に来て滞在していたときに、築山殿の目を盗んで別の女と性交渉を持ったことになる。戦国時代の男女関係にはあり得ることだったのかもしれないが、それによって夫婦関係に変化が生じても不思議ではないだろう。

また、この時期の築山殿を「信康御母さま」とだけ記し、つまり家康の「室」「御前」(いずれも妻を表わす言葉)と表記していない文献もあることから、本当は離縁していたのではないかと、一部では指摘されている。

徳川は内紛の火種を抱えていた

家康と築山殿の結婚は、弘治3(1557)年頃とされる(正確な時期は不明)。家康がまだ松平元康の名で今川義元の人質となっていた時期に、義元の重臣の一族の娘だった築山殿と夫婦になった。築山殿は義元の姪だったという説もある。

今川義元 桶狭間大合戰之圖
梧斎年英筆「今川義元 桶狭間大合戰之圖」(画像=淡河俊之コレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、結婚の3年後に桶狭間の戦いが起き、義元は織田信長に討たれた。それを機に元康は今川からの独立を画策する。一方、築山殿は今川の人質として据え置かれ、2人の間にできた子・信康も今川の手中にあった。やがて妻子は家康のもとに戻るが、夫婦および父子には別々に暮らす空白期間があったことになる。

そうした経緯に加えて、また別居が始まった。しかも今回は浜松の家康、岡崎の信康・築山殿と、家中が二元体制に分裂する危険をはらんでおり、さらに信長の娘という扱いづらい存在の五徳が岡崎にいるという、複雑な様相を呈していたと考えられる。

ちなみに一般的には、信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとする説が浸透しているが、そうとばかりも言い切れないとの見解もある。家康と信康に深刻な確執が発生し、それを家康が信長に相談したところ、信長は「家康の思い通りにせよ」と答えたのみで、強制していなかったと伝える史料もある(『当代記』)。

要するに徳川自体が内紛の火種を抱えていたとも考えられ、そうした状況下にあった以上、築山殿が武田へ内通していたとする『十二ヶ条の訴状』の一部も、(不倫などはともかくとして)あながち否定できなくなるのだ。そして、そうであったなら、信康に加担したであろう築山殿も「毒婦」のそしりを免れないことになる。