なぜ村重は生き延びられたのか

村重はその後、毛利氏を頼り尾道に逃れました。わずか1年後、本能寺の変が起こり、その後は身を隠す必要がなくなったのでしょう。得意としていた茶道でもって秀吉に仕え、天正14年(1586)、堺で亡くなります。村重はよく「妻子を見捨てた」「逃げた」などと評されることがありますが、これまで述べてきたように有岡城を脱出したのは、信長にさらに抵抗・対抗するためでした。

法橋玉山 画作『絵本太閤記』3巻(国書刊行会)
法橋玉山 画作『絵本太閤記』3巻(国書刊行会)大正6年(1917)、 国立国会図書館デジタルコレクション

毛利氏を頼ったのもその意思の表れでしょう。村重は信長に屈せず、最期は堺にて畳の上で平穏に死にました。一方、信長は天正10年(1582)6月、京都本能寺にて家臣の明智光秀に討たれたわけです。それを考えると、最終的な勝者は村重だったと言えるかもしれません。

参考文献
・伊丹市史編纂委員会編『伊丹市史』第2巻(伊丹市、1969)。
・宝塚市史編集専門委員編 『宝塚市史』第2巻(宝塚市、1976)。
・八木哲浩編『荒木村重史料』(伊丹市、1978)。
・天野忠幸『荒木村重』(戎光祥出版、2017)。

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