村重の「まんじゅう」話とは?
その頃には村重は茨木城(大阪府茨木市)の城主となっていました。元亀4年と言えば、足利義昭と信長との対立が先鋭化し、義昭が信長に対し挙兵した年です。同年2月、義昭は信長に敵対する意思を示しますが、信長はそれに対し入洛せんとします(3月25日)。その信長に「御身方」「御忠節」を尽くそうとして、逢坂(滋賀県大津市)まで出迎えたのが、『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)によると「細川兵部太輔」(細川藤孝)と「荒木信濃守」(荒木村重)の2人でした。
両人に出迎えられた信長はたいそう機嫌が良かったとのこと。その後、信長は東山の智恩院に布陣します。その際、南北朝時代の刀工・郷義弘が鍛えた「御腰物」を村重に、名物の脇差を藤孝に与えました。信長の武力に圧倒された義昭は一度、和議を結びますが、7月になると宇治の槇嶋にて再度挙兵します。村重は柴田勝家や羽柴秀吉らと共にこれを攻めています。
ちなみに、村重と信長の出会いと言えば、有名な「饅頭」エピソードがあります。村重が初めて信長に目通りしたとき、信長が刀を抜いて大きい饅頭を2、3個刺し貫き、「これ、村重」と差し出した。その場にいた人々が驚くなか、村重は大口を開けてその饅頭を食おうとし、これを見た信長は日本一の器と賞賛。腰に差した脇差を授けたというものです。
村重の物事に動じない豪胆さを思わせる逸話ですが、それから100年以上経った正徳2年(1712)刊の『陰徳太平記』に書かれたエピソードなので、本当にそういうことがあったかどうかは、疑わしいところです。
織田家臣団の一員となるが…
天正2年(1574)3月27日、信長は大和国に出かけますが、この時、村重は佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀といった織田宿老と共に「御奉行」として供奉しています(翌日、信長は正倉院の有名な香木・蘭奢待を目にすることになります)。翌年(1575)8月には越前国の一向一揆を鎮圧するため、村重は越前に出陣。鎮圧が完了すると、村重はすぐに播磨国に出陣することを命じられています(『信長公記』)。
そして天正4年(1576)4月には細川藤孝・明智光秀らと共に大坂の石山本願寺攻めに参加。この時、村重は尼崎から海上を進み、大坂の北の野田に砦3つを構築しています。その後、織田軍が苦戦し、織田方が籠る天王寺砦が窮地に立ったということもあり、5月5日には信長自ら出陣を決意。それは突然の出馬であって、信長はわずか百騎ほどを従えて河内国の若江に入るのです。

