ついに「村重謀反」の事態に
信長の命令に従い、諸国を転戦する村重。今後もそれが続くかと思われましたが、同年10月21日、信長のもとに「荒木摂津守(村重)が逆心を抱いている」との知らせが方々から寄せられます。信長は村重の謀反情報を信じず「何か不満でもあるのか。思うところがあるならば聞いてやろう」と使者(松井友閑・明智光秀・万見仙千代)を村重のもとに遣わします。
村重は「少しの野心もない」ことを使者に伝えたとされます(『信長公記』)。それを聞いた信長は大いに喜び、出仕を村重に求めますが、村重はそれに従わず。それでも信長は明智光秀や羽柴秀吉・松井友閑らに村重との交渉を命じますが、最終的に村重は信長を裏切ることになります。
村重はなぜ信長を裏切ったのか。信長に敵対する本願寺顕如は村重に起請文(天正6年10月17日付)を出し、その中で「当寺に味方するならば良いことも悪いことも互いに相談し、懇意にする」「公儀(足利義昭)や芸州(毛利氏)に忠節を尽くすならば、摂津国は申すに及ばず他国も(村重の)思いのままになるよう周旋しよう」と誓っています。村重は本願寺の勧誘に心動かされた可能性が高いでしょう。
ではなぜ本願寺の「誘惑」に負けたのか。羽柴秀吉が中国征伐の司令官になったことで織田政権のもとではこれ以上の出世は望めないと村重が考えたとも思われます。村重が籠ったのは摂津国の有岡城(兵庫県伊丹市)ですが、ここで約1年間、織田軍に抗戦することになります。
そして天正7年(1579)9月2日の夜、村重は5、6人の供だけで密かに有岡城を忍び出て、尼崎に入るのでした(『信長公記』)。これは「逃走」と捉えられがちですが、尼崎城には毛利氏の家臣・桂元将が詰めており、救援要請に向かったと考えられています。村重は有岡城にいた妻子や家臣らを見捨てたわけではなかったのです。
信長から城の明け渡しを求められ…
しかし村重の願いは叶わず、同年11月、有岡城はついに開城します。織田方は「花隈城(兵庫県神戸市)と尼崎城を開け渡せば、各々の妻子を助けよう」と提案し、それを有岡城にいた一族の荒木久左衛門や家臣が尼崎の村重に伝達しました(荒木の家臣らの妻子は人質として有岡城にいました)。
この時、村重が信長の意向を受け入れていたら、後の悲劇はなかったかもしれません。村重はよほど信長に不信感・嫌悪感を持っていたのか、信長の提案を拒否、両城を明け渡すことはありませんでした。

