戦争は、もう二度とあってはならない

春日さんは一人、東京近郊に疎開することとなったが、そこには「水甕」を守る使命もあった。

「リュックを背負ってね、水甕を運んだんです。印刷しても配れないものや、印刷所がなくなって謄写版で刷ったものとか、大事なものは全部背負って。そういうお手伝いは、一生懸命していました」

開戦のニュースを聞いたのは実家だったが、玉音は疎開先で聞くこととなった。今、強く思う。

「とにかく、戦争はいけません。二度と、あってはならないことですよ。だから私はいつも空を見て、太陽がどこに行くのかを見てるんです。その太陽が行き着く空の下ではまだ、戦火を浴びている人がいる」

補聴器を外して耳を撫でやりぬ空爆のニュースしづかに消して(『宇宙卵』)

学徒出陣から帰ったのは、2人だけだった。その一人がなぜか、生きた鶏を抱えてやってきた。その鶏がやがて、卵を産んだ。

「その卵が、ぬくかったの。そのぬくいのが宇宙卵の始まりだったんじゃないかなと、昨日、ふと思ったんです」

『水甕』の前でほほ笑む春日さん
写真提供=春日さん
『水甕』の前でほほ笑む春日さん。71歳のころ

結婚、そして未亡人に

戦後すぐ、20歳で結婚した。「平凡に、幸せになるため」の、お見合い結婚だった。24歳で、娘・いづみさんが産まれたものの、いづみさんが記憶する父の思い出は、数えるほどしかない。癌でずっと闘病を続け、5歳の時に亡くなったからだ。

「私の夫となる人は、京都大学を出た商社マンでした。夫も一緒に水甕を運んでくれ、手伝ってくれました。ありがたかったですよ。でも、亡くなっちゃったんですよ……」

薄暗い癌病棟の病室で、死に行く夫に付き添い、看取った中、「歌が生まれた」と春日さん。春日さんだけの、誰にも取って代われない歌が、きっとそこで懐胎したのだ。

まだ28歳という若い女性に、世間は未亡人というレッテルを貼る。それは惨めで哀れで、可哀想な存在という型に嵌めることだった。

「涙で滲んだような、薄い字で手紙を書いてくるのよ。お気の毒ですって。これからは、子どものことだけを考えてって言われた時に、ごぼうのささがきを粗く作ってね」

そこにあるのは母という「役割」だけ、生身の人間は存在しない。これが当時の思いやりのある、慰めだった。春日さんは、怒りを隠さない。猛然と、人間として反旗を翻す。ここに、春日真木子の歌は生まれた。

児の成長に関わりて生きよと云われし夜牛蒡の粗きささがきを造る(『北国断片』)