「お前は平凡に生きなさい」
昭和13(1938)年、日中戦争の翌年に、一家が東京に居を移したのも、「水甕」のためだった。「中央」で発行する雑誌であることこそ、結社の悲願だったからだ。こうして中野区にある松田家が、「水甕」の発行所となった。
「夫婦で、水甕を背負ったわけですよ。母は大変だったと思います。結社の人たちの旅館みたいなものだったから」
12歳だった春日さんは東京で女学校に入り、卒業後は千代田女子専門学校に進む。実母が大正初期であっても大学で学んだというのに、なぜ、専門学校だったのか。
「常憲が言うんですよ。『歌がうまい女性は不幸な人が多い。だから、お前は平凡に生きろ』って。だから、平凡なんですよ」
「平凡」なんか全くそぐわないのに、クスリと笑えるオチを春日さんは忘れない。父の教え子たちはほぼ「水甕」に入り、歌を作っていた。その姿を見ていた父だからこその、「平凡に」という教えだった。だが、本人として異議はなかったのか。生まれ落ちた時から、短歌に囲まれて生きていたのに。
「家の状態をじっと見ていましたから、私はあんな歌まみれとか、そういうことは一切しないでいたいって思ったんです」
ここにも、冷徹な観察眼を持った少女がいる。専門学校に進んだものの、時は昭和19(1944)年、太平洋戦争の真っ只中。戦況は激化の一途を辿り、授業どころか、軍需工場での作業ばかりの日々。
「軍需工場の辺りで、爆撃があるんですよ。あの頃は本当に怖かった……。だから親は学校を中退させて、三井鉱山に就職させたんです。まだ、安全だろうということで」
学徒動員で出征した忘れられない3人
当時、春日さんには忘れられないことがある。学徒動員で出征した、3人の「水甕」の若者のことだ。3人とも慈恵医大の学生で、よく父を訪ねてきた。
学徒出陣が始まったのは1943(昭和18)年。医学生は、軍医として招集された。
「3人が家に来ますとね、終電まで父と語り合って楽しそうでした。学徒動員となって別れを告げにきた時、父は『万葉集を持っていけ』って。父は、彼らの姿が見えなくなるまで見送っていました。うっすらと、涙を浮かべて……」
国内でも、状況はどんどん逼迫する。歌会をしていれば憲兵がやってきて、治安維持法、国家総動員法に抵触するなどの弾圧を受ける。雑誌にとっての生命線である印刷所が焼失し、紙も配給となった。

