“武勇伝”を実名で新聞に掲載

さらに、この見習い期間の思い出として、担当医師が留守だったので自分の一存で入院させて手術を受けさせたら患者が助かった、といった武勇伝がいくつも書いてある。

そう、和を筆頭に、全員「報連相ってなに?」な世界の住人なのだ。

それでいて「終わりよければすべてよしでしょ?」とばかりに美談にしている。現代の病院でこれをやったら、即座に医療事故案件である。いや、そもそも採用面接すら通らない。やっぱり暴走ヒロインそのものといえるだろう。

しかも、なにが酷いって現在のように個人情報の管理が厳しくないとはいえ、和は自分が面倒見た入院患者のことを貴賤を区別せず実名で語りまくっている。例えば、当時の田中光顕宮内大臣の夫人(伊輿子、土佐藩家老・深尾康臣の長女)を看護した時のことはこう語っている。

神経が過敏でいらっしゃる上に口では一言も何とも仰らないので、心の中にお思いに成ってる事が、ちゃんと行われないとお気に召さないという様な……宮相も矢張り同じご気質でございます……方でいらっしゃいましたから、なかなか気骨が折れましてございます(「毎日電報」1907年2月7日付)。

ようは「奥さんも旦那さんも、神経質で扱いにくかった」である。実名で。新聞に。

“看護婦見習いの本音”を次々に語った和

田中光顕、当時の宮内大臣である。その妻の「扱いにくさ」を、見習い看護婦が全国紙に語っている。しかも本人、まったく悪気がない。その上、これに続いて鷹司順子公爵夫人の看護をした時のエピソードでは「流石は徳大寺様の姫様だけあって(順子の生家は徳大寺公爵家)」と上品で物腰柔らかかったと褒めちぎっている。

田中光顕、1843~1939
田中光顕、1843~1939(写真=田中青山伯 発行:1917年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

田中夫人・伊輿子は土佐藩家老の娘。かたや鷹司夫人は五摂家のひとつ・徳大寺公爵家の出。和からすれば、前者は「似たような出自なのに華族の令夫人に収まったヤツ」で、後者は「本物の上流」ということになる。

おそらくは新聞記者に聞かれて、そういえば……と思い出したのだろう。「こっちは看護婦なのに、アンタは令夫人ですかぁ? ……まあ、アタクシのほうが美人ですけどねえ……けっ……」という信仰をもってしても消しきれない和の世間への怒り怨念が暴走したのだ。

いやいや、たとえ取材で自分の喋ったことが記事になるとわかっていても、脊髄反射で語ってしまうのを止められない和はやっぱり目が離せない女性である。

しかも、看護教育史を研究した亀山美知子などによって、この取材を担当した記者は管野スガだったのではないかとも考えられている。