“コスパ信仰”を疑う必要性
今回の磐越道バス事故でも怖いのは、もし「予算を抑えたい」が事実だった場合です。
くり返しますが、もちろん、安く依頼することは違法ではありません。でも、そのせいで誰かの負担が超過することを「知らなかった」ではNGです。「舞台裏をぜんぜん知らなかった」なんて、舞台の表に立つ人の言葉じゃない。素人の言い訳にすぎません。
これから事実が明らかになるにつれて、学校も鉄道会社も認めたくないことを認めざるを得なくなるでしょう。同時に、メディアも外野も当事者を限定して非難しつづけるかぎり、きっとまた類似の事故が起きるでしょう。なぜなら、構造が変わらないから。
だから必要なのは、犯人探しじゃありません。「安全」に対しておカネを“かける”のが当然な社会にすることじゃないか。たとえば部活遠征への補助。移動の安全基準。契約の透明化。法的にグレーな運行を排除する仕組み。こういう地味な話のほうが、本当は必要です。
要するに、いまの社会の“コスパ信仰”を疑う必要があるんです。
賢い人のコスパ感覚とは
「安く済ませる能力が高い人=賢い」みたいな価値観が、世の中にはあります。それが“コスパ信仰”です。でもそれって、半分正しくて、半分間違いです。
「安全を削るコスパ」は、最終的に一番コスパが悪い。
これ、すごく単純な話なんです。数万円節約した。でも事故が起きた。人が亡くなった。裁判。賠償。信頼失墜。学校のブランド低下。保護者の不安。部活停止。人生が壊れる。それって、本当にコスパいいんですか? ということ。
たぶん、最悪のコスパです。
最後にもう一度、言います。
本当に賢い人は、「削っていいコスト」と「削っちゃダメなコスト」を分ける。分けられる。くり返しますが、「安全」は後者で、削っちゃダメなほう。
思えばいまどきの傾向は、安全コストを真っ先に削りがちです。でも、命のコストだけは、後払いできない。事故が起きたあとに、「やっぱり安全にお金をかけるべきだった」と言っても、もう遅い。
これは学校だけの話じゃなくて、会社でも、家庭でも、社会全体でも同じでしょう。「安いほうが正義」だと思った瞬間に、人は見えないリスクを軽視し始める。そのとき、コスパはコスパじゃなくなる。ただの、危険な天秤です。
そしてその天秤に、最初から乗せちゃいけないものがある。いくつもある。何が、いくつ、どこにどれだけあるか。それをリスク込みで考えることが、本来のコスパなんです。
少なくとも、人命で試す話じゃありません。


