90年代前半の「女性の営業」の状況

ザル法とも称される男女雇用機会均等法の施行は1986年。91年入社の近藤氏は「入社した頃、女性の営業も数人いた」と話すが、営業職に従事する女子総合職はまだ珍しかった。

大手食品の人事部長は1994年秋の取材で、筆者に次のように話した。

「営業に異動する女子総合職に対し、人事部は事前に『やれますか』と聞き、『やれます』と返ってくる。それでも、仕事の厳しさ、辛さからか、短期間に辞めてしまうケースは多い。こうなると、人事部は異動先の上司に対して、実に都合が悪いし、申し訳なくなる。その上司から、人員補充の要請が来るわけですが、すぐには対応もできない。総合職であっても、女子の場合は“辞める”という切り札を簡単に切ってくる。なので、人事部としては女子を営業へ異動させるのには慎重になり、結果として彼女たちの職域を広げる機会を逃している」

1995年当時の都銀(現在はメガバンク)に総合職で入社した女性は言う。

「就活で差別を受けました。男子と女子とで、銀行から送られてくる就活用資料が違ったのです。同じ大学の男子には、詳細で厚い資料が送られ、私たち女子に送られたのは薄い表面的なものだった。総合職でも女子には期待しない、銀行の姿勢が表れていた」

パワーの原点は高校時代の部活動

――攻めの姿勢で前へ進む、近藤さんのパワーの原点には何があったのですか?

【近藤】原点はバスケットボールです。中学、高校、大学とやってきましたが、特に高校(神奈川県立茅ヶ崎西浜高校)では、指導者が厳しかったし、怖かった。試合でミスをすると、すぐにベンチに下げられた。そのままシュンとしていると二度と、ゲームに出させてはもらえない。「お願いします! お願いします!」と強く訴えなければ、コートには戻れなかった。

試合後は、一人で居残り練習をしたり、朝練をして、ミスの修正に取り組む。「みんなで勝とう!」と、部員は支え合っていたけど、その一方で競争はありました。みんな、レギュラーの5人にどうしても入りたかったから。だから、厳しい指導者のもとで、練習を続けたのです。

いまなら問題でしょうが、指導者が選手にボールを投げつけるようなことは普通でした。昭和の時代は。