秀吉とは真逆の柴田の戦い方

一方、勇猛なことで知られたのが柴田勝家で、織田信長を支えた宿老のなかでも、とりわけ猛将のイメージが強い。象徴的なのが「瓶割り柴田」の逸話である。それは元亀元年(1570)6月、勝家らが野洲川(滋賀県野洲市)をはさんで六角氏と戦い破った野洲河原合戦の直前に起きたとされる。

山鹿素行の『武家事紀』などによると、この戦いに先立って六角氏は、勝家がこもる長光寺城(滋賀県近江八幡市)を攻め、城内で唯一という谷からの水源を止めさせた。危機に陥った勝家は城兵の前で、「城内にある水はこれらの瓶だけで、このままでは渇いて死んでしまう」と説明。そして「余力があるうちに決死の思いで敵に挑もう」と鼓舞し、3つあった瓶を叩き割ってしまったという。

それが勝家の軍勢の勝利につながり、以後、勝家は「瓶割り柴田」とか「鬼柴田」などの異名を得たとされる。この逸話の真偽はともかく、勝家はそういう逸話が似合う人物だったということだ。

秀吉の合理的だが残酷で、ある意味ズルい戦法と正反対であることはまちがいない。

信長に忠義を尽くすしかない

勝家は最初、信長の父の信秀に仕えたが、天文21年(1552)に信秀が病死すると、信長ではなく同母弟の信勝に仕えた。そして、信長と信勝が争った際には、信勝側の部隊に参加して信長側の将を討ち取るなどした。

その後、兄弟は和解したが、信勝はふたたび兄を倒そうと画策。そのとき、弟の「謀反」を信長に密告したのが勝家で、それを受けて信長は信勝を誅殺した。そんな過去があるだけに、勝家はほかの武将以上に、信長にまっすぐに忠義を尽くしたといわれる。

一方、百姓の生まれで、わずかの期間に織田家の重臣の地位にまで上り詰めた秀吉は、真っすぐに忠義を尽くすだけで出世できたとは考えられない。機転を利かせ、先例にとらわれずに柔軟に思考し、人が思いつかないようなことを次々と実行する――。そんな才でもないかぎり、身分の高い先輩方を差し置いて、凄まじい速度で出世することなどできっこない。

水と油。だからこそ、「柴田」から1文字とって「羽柴」と名乗るなどのおべっかを使う必要もあったのだろうが、所詮は水と油だったのではなかろうか。無断で勝家のもとを離れて帰陣した件もそうだ。戦法について「三木の干殺し」と「瓶割り勝家」で議論したところで、『信長公記』が書くように、〈羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず〉という結論にしかならないと思われる。