餓死者の肉を食した「三木の干殺し」

秀吉がなにを原因に、信長の許可なく勝手に戦線を離脱するという思い切った行動に走るに至ったのか、具体的なことはわかっていない。しかし、勝家と意見が合わないということは、2人のタイプを思い描いただけでも容易に想像できる。

秀吉らしさは、この時期からの戦い方に典型的に現れている。味方の損失は最小に止めながら最大の効果を得る、というものである。

天正6年(1578)3月に開始された三木合戦では、離反して毛利方にくみし、三木城(兵庫県三木市)に籠城した別所長治に対し、徹底した兵糧攻めを行った。三木城の周囲に40もの付城(敵の城に対峙して築かれる臨時の城)を築き、1年10カ月にわたって包囲。食料の補給路を完全に断って、別所一族の自刃と引き換えに、城兵を助ける約束で降伏へと導いた。

「羽柴秀吉三木城包囲図」
「羽柴秀吉三木城包囲図」(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

たしかに武器による戦いがないので、味方の損失は非常に少なくて済む。しかし、城内にいる兵士や馬などを飢えさせる極めて残酷な戦法であり、三木合戦も「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨な状況を生んだ。餓死者が続出し、生き残った人は飢えをしのぐために、牛馬はもちろん、壁の土や草の根、さらには餓死者の肉まで食したと伝えられる。

また、秀吉は助けられる約束だった城兵を虐殺したとする史料もある。

人肉の奪い合いが起きた「鳥取城の渇え殺し」

城兵の虐殺はいかにもありそうだ。というのも、そもそも秀吉の作戦とは、かなり残酷なことが多かった。三木合戦の前年の天正5年(1577)12月――秀吉が勝家率いる軍勢から勝手に帰陣して4カ月後にあたる――毛利家にとって最前線の城だった上月城(兵庫県佐用町)を攻め落としたが、このとき城兵を虐殺しただけでなく、毛利家への見せしめとして、城内にいた女性を磔刑に処し、子供を串刺しにしている。

そんな残虐行為があったからこそ、別所長治は秀吉のもとを離れて毛利側につく決断をし、三木合戦がはじまったともいわれるのだ。

さて、「三木の干殺し」が、時間こそかかったが成功したので、天正9年(1581)の鳥取城(鳥取市)の攻囲では、さらに徹底した封鎖作戦がとられた。周囲の米を相場の数倍の高値で買い占めて城内に備蓄させず、そのうえで2万の大軍で包囲して、外部からの補給を完全に断った。飢餓地獄の城内では、人肉の奪い合いさえ起きたと伝わる(「鳥取城の渇え殺し」)。

現在の鳥取城
撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の鳥取城

続けて、本能寺の変が起きるまで行っていたのが、備中高松城(岡山市)の周囲に堤防を築いて水を引き入れ、城兵を飢えさせて降伏させた「高松城の水攻め」だった。これら3つは「秀吉の三大城攻め」として知られる。