重臣でもないのに天主近くに?
大手道の両側には秀吉、利家の名前が見られる。麓から向かって右手が伝・前田利家邸、左手が伝・羽柴秀吉邸だ。信長の甥で、明智光秀の娘を娶った織田信澄(津田信澄)や、信長の右筆(主君に代わり文書作成などを担当する文官)だった武井夕庵の名も見られる。
ところで、縄張図をもう一度よく見てほしい。武将名が記されている屋敷の中で、最も天主に近くに居を構えているのが、長谷川秀一、そして万見仙千代(重元とも)だ。よほど戦国時代に詳しい人でも正直なところ「誰それ?」という存在だろう。少なくとも秀吉や利家に比べると、はるかにマイナーで、信長麾下で残した実績についても雲泥の差がある。いったいなぜ、この二人が「最も主君のそば」にいたのか。
なお“伝”とあるのは、同時代の一次資料や発掘などで立証されていないため。従ってどの邸も後世に推定されたものに過ぎない。ゆえに、以下の話はあくまで「もし仮に“伝”が正しければ……」という前提でお読みいだたきたい。
安土城は“戦う城”でもあった
その答えを明らかにする前に、安土城の構造について見ておきたい。一般には「見せる城」として語られることの多い安土城だが、実は案外「戦う城」としての特徴を随所に備えている。このことは、安土城がメディアで紹介される際、先に挙げた大手道の写真が最も使われることが影響している気がする。
まず、安土城の比高は105m。これは立派な山城といっていい。さらに真っ直ぐなのは最初の大手道のみ。そこから先は幾度もカーブしながら斜度を増し、また頭上はるかから狙い撃ちできる構造で、城内の通路は進んでいる。
その先が信長の嫡男・織田信忠邸だ。前出の縄張図には記載がないが、伝・武井夕庵邸の上あたり。ちょうど先ほどの急坂のカーブの先。攻め手のルートは狭く絞り、その奥には充分な塀を駐屯できる。まさに城の守りの理想といえる。




