イノベーションの土台にあった家族の犠牲
激怒した義兄から「妻を捨てて家出する人に、妹はやれぬ。離縁してくれ」と突きつけられ、ついに離婚が成立。生後間もない我が子の誕生すら知らないほど、佐吉の頭の中は発明のことで埋め尽くされていたのである。
地元・湖西市にある日蓮宗妙立寺の佐吉の墓の近くには、幼子を残して実家に帰り、その後横浜や神戸の外国人住宅で働いたと伝わる前妻・たみの質素な墓が、ひっそりと残されている。
残された長男・喜一郎の幼少期もまた、孤独なものだった。他ならぬトヨタ自動車歴史文化部が企画した『豊田喜一郎伝』には、当時の喜一郎が「牛乳によって育てられ、おなかをよくこわした」「遊び相手も乏しかった」と記されている。
父親不在の中で育った彼は、「何事も黙って我慢することを覚えるようになった」といい、目立つ言動も少なくエピソードに乏しい少年時代を過ごした。その孤独な少年が、後に「トヨタ自動車」という世界企業を一から立ち上げることになる。佐吉の「執念」は、息子の沈黙の中にも静かに受け継がれていたのかもしれない。
世界的なイノベーションの土台には、こうした家族の犠牲が横たわっていたのである。
再婚相手は念入りに調査
自らの変人ぶりで愛想をつかされて妻を失い、周囲から奇異の目で見られ、借金取りに追われる。なぜ、佐吉はそこまでして発明に執着したのか。それは「人間の頭の中から是れまで世の中に無い物を考え出す。何か一つお国の為になるものを」という、極めて純粋で強烈な利他心があったからだ。
理想と現実の過酷なギャップについて、佐吉自身は後に著した『発明私記』の中で、己の血の滲むような人生を次のように総括している。
「研究考案には金がかかる。昔から発明家はことごとく貧乏で、人情は離反し、果ては虐げられる。あらゆる人間の悲哀をなめ尽くした後に待望は成就する」
自らを襲う状況を「人間の悲哀」と自覚し、自らの身でなめ尽くしながらも、彼は決して歩みを止めることはできなかった。
そんな悲運の男にも、ついに運命の転機が訪れる。1897年(明治30年)、吉津村の旧家に生まれた林浅子との再婚である。『遠州偉人伝』によれば、佐吉は何も調べずに結婚した前回の失敗を繰り返さないため、今度は「発明に対するような熱心さで、いろいろ細かく調査」して相手を選んだという。

