トヨタ創業期の基礎を築いた三本の矢
「大番頭」としてトヨタ自動車工業の社長を務める石田退三も、若き日に佐吉と遭遇した際の印象を後年語り残している。
当時、別の会社に勤めていた石田の前に現れた佐吉は、挨拶やお辞儀をするわけでもなく無遠慮に突っ立っており、見かねた石田が「お金ですかい」と尋ねると、「そうですな」とだけぶっきらぼうに答えたという。体裁や礼儀など彼にはどうでもよく、ただ目の前の研究開発資金を調達することしか眼中にない男であった。
トヨタ自動車の会長を務めることになる豊田英二氏(佐吉の甥)でさえ、日本経済新聞の連載コラム「私の履歴書」の中で、佐吉は若いころから変人扱いされ、試行錯誤を繰り返しながら織機をつくったと、身内の異端ぶりを隠すことなく述懐している。
しかし、彼の孤独な狂気を現実の事業へと結びつけたのは、身内たちの献身だった。豊田英二氏の父であり、佐吉の次弟にあたる平吉は、資金繰りのために佐吉が作った「かせ繰り機」を関東地区で売り歩くセールスマンを務め、後には動力織機を動かすための「動力づくり」も泥臭く担った。
末弟の佐助も加わり、彼ら三兄弟は毛利三兄弟のごとく三本の矢となってトヨタ創業期の基礎を築いていったのである。
妻が語った「結婚して、馬鹿をみた」
佐吉の機械のからくりへの執念が、最も深い影を落としたのは彼自身の家庭においてである。
周囲から変人扱いされる佐吉を見かねて、両親は結婚を勧めた。1893年(明治26年)、佐吉はかつて一緒に上京した親友の妹である「たみ」と最初の結婚をするが、その実態は凄惨なものだった。
郷土史家の御手洗清氏が戦後著した『遠州偉人伝』には、当時の冷え切った夫婦関係が克明に記録されている。
同書によれば、発明に熱中して一切妻をいたわらない佐吉に対し、たみは「いやなひと」「村へ帰ろうかしら」とこぼした。しかし佐吉は「発明は俺の一生をかけた大仕事だ。辛抱してくれ」と言い放ち、「理解のないものは駄目だ」と顧みなかった。
たみは心の底で「発明気違い(原文ママ)なんかと結婚して、馬鹿をみた」と恨んでいたという。
決定的だったのは、翌1894年(明治27年)の長男・喜一郎(後のトヨタ自動車創業者)の誕生時である。研究と金策のために家を空け、豊橋や名古屋を放浪していた佐吉は、訪問先でたみの兄から「あんたが家出してから、あんたの子どもが生れたの知ってるかえ」と問われ、「えっ、子ども」と驚愕したと伝わる。

