北京の人が感激した松山バレエ団の上演

外国の芸術文化に飢えていた北京の人びとは松山バレエ団の上演を見て感動し、その洗練された踊りと魂を強く揺さぶる音楽に感激した。

当時の中国でも、ソ連の芸術を取り込むという狙いからバレエの普及が始まっていたが、まだまだ成熟しておらず、ソ連との仲も次第に悪くなり始めていた。自然と、日本の松山バレエ団が主導的地位を占めるようになった。

このように『白毛女』の主役である白髪の女は、古い中国の妖怪伝説に登場する鬼「死人」から華麗に変身し、悪徳地主を打倒して革命家として立ち上がる「階級闘争の主人公」へと磨き上げられていった。

搾取階級への深い恨みに根差し、権力の打倒のためには残虐な暴力を肯定し、謳歌さえするイメージまであからさまに描き出している。

まさに「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の考え方を反映した革命的演劇(様板戯ようはんぎ)、文化大革命芸術のシンボルとして、伝説の妖怪が革命のヒロインとして近代中国に再び登場を果たしたのである。

松山バレエ団の活躍を見て、自分も立派な芸術を生み出さなければならない、と考えた江青の指導下、上海市舞踏学校においてオペラ『白毛女』が上演された。政府の後押しもあって全国的にヒットしたこのオペラが、やがて文化大革命芸術の模範になっていく。

上海市舞踏学校
上海市舞踏学校(画像=Lars Plougmann/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

私自身、子どもの頃にラジオでオペラ版『白毛女』を繰り返し耳にし、今でも歌詞をほとんど覚えているほどである。そしてときおり、うっかり革命現代劇の歌を歌ってしまうくらい、文化大革命の毒素は私の脳裏にも沈殿している。

地方では映画版『白毛女』が大ヒットした。1967年夏、毛が『白毛女』を観賞し、礼賛する。その様子は日本語雑誌『人民中国』(1967年9月号)に写真入りで伝えられている。

造反派紅衛兵のせいにする

毛は、それまで「死人部」「帝王将相部」「才子佳人部」と批判していた中共中央宣伝部の革命化が、宣伝部長・陸定一や北京市長・彭真の打倒によって成功したことに満足した。一見すると文字通りの「文化革命」であるが、やがて暴力を伴う大きなうねりへと変質していく。

当時、『白毛女』をはじめとする8つの革命劇が誕生し、全国に定着していた。さらに日本や北朝鮮、社会主義各国などへ広がっていった。背景には北京に滞在していた日本の左派芸術家と文化人による熱心な芸術指導があり、日本の報道も大きな影響を及ぼした。

たとえば中国は「地主の荘園」を再現し、搾取の塑像を展示したことを日本が報道して国際化した。収租院の塑像について、日本青年関東代表団の石崎泉が「日本には社会主義中国のような素晴らしい芸術的環境がない」と言葉を惜しまずに礼賛している。こうした点でも、文化大革命と日本の連動が顕著に見られる。

そしてこの展開が、毛沢東が理想とする「死人から生きている人間、労働人民の農村の文化大革命」へと発展、改善していく。

つまり『白毛女』が扱っていた、地主が農民をレイプし、立ち上がった人民がその反革命的な地主を処刑して主人公になる、というストーリーの骨格、言い換えれば毛が思い描いていた空想のドラマが、全国で革命として実現していくことになる。