意志の力だけでは太刀打ちできない

【教授】「だから『次こそは我慢するぞ』という精神論は長続きしない。双曲割引という強力な本能に、意志力だけで立ち向かうのは無謀なんだ」

【木村】「そうなんです。給料日が来るたびに『今度こそは』と思うのに、数日後には財布が軽くなっている。意志の力ではどうにもならない気がします」

【教授】「大事なのは、自分が誘惑に負けるとわかったうえで、未来の自分をあらかじめ縛ってしまうことだ。これを『コミットメントデバイス』、別名『ユリシーズの契約』と呼ぶ」

【木村】「ユリシーズの契約……?」

セイレーンの歌とユリシーズの知恵

【教授】「古代ギリシャの英雄ユリシーズ(オデュッセウス)は、航海の途中で“セイレーン”と呼ばれる怪物の島を通ることになった。セイレーンは人間離れした美しい歌声で船乗りを惑わせ、近づいた者を岩礁に誘い込み、破滅させる存在だ。ユリシーズはその歌を聞きたいと思ったが、同時に自分が必ず誘惑に負けてしまうこともわかっていた」

【木村】「怖い存在だと知りながら、どうしても聞きたかったんですね」

【教授】「そうだ。彼は船員たちに耳栓をさせ、自分の体を船のマストに縛り付けさせた。『たとえ俺が必死に頼んでも決して縄を解くな』と命じて。実際にセイレーンの歌が響くと、ユリシーズは縄を解けと叫んだ。しかし船員たちは命令通り耳を塞ぎ、彼を縛り続けた。こうして船は難所を無事に通り抜けた」

【木村】「……なるほど。未来の自分が誘惑に負けるとわかっていたから、理性が働くうちに縛らせていたんですね」

【教授】「そう。ユリシーズの契約とは、『未来の弱い自分を、現在の理性的な自分が縛る仕組み』のことなんだ」