信長も大いに尊敬し理想としていた

清盛の優しさは、敵対する相手に対しても失われませんでした。若い頃、瀬戸内海の海賊退治を命じられた際、公家たちは海賊の皆殺しを命じました。

けれども清盛は、従順な姿勢で降参した海賊を許し、あろうことか彼らに商船の警護役を与えたのでした。

もし海賊を片っ端から処刑していれば、恨みによる報復で、海の安全は脅かされつづけたでしょう。清盛が話のわかる一流の人物だと知れ渡ったことで、海賊は減り、日宋にっそう貿易を支える安全な航路が確保されるようになったのです。

人格者であり、優しさも兼ね備えた清盛を、実は戦国の覇王・織田信長も大いに尊敬しており、自らの“天下布武”の理想としていたほどでした。

平清盛の肖像画
平清盛の肖像画(藤原為信・武信作、内務省旧蔵)(写真=国立公文書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

現代でも感情に任せて、人前で部下を怒鳴りつける上司がいますが、どれほど上司の言い分が正しくても、衆人環視の中で怒られた部下は反省せず、ただただ感情論で不快に思いつづけるもの――。

指摘の内容が正論であっても、恥をかかされたとのみ思い込み、“怒り心頭しんとうに発する”人=部下には、反省はないものです。若い頃の苦労を通じて、相手の痛みがわかる人間になれたかどうかが重要であり、叱る際の言動を見れば、その人物が師、上司にふさわしい人物かどうか、判断できるに違いありません。

師匠とは、人生における優れた先人

かつての日本において、師匠という存在は人格者と同義(同じ意味)でした。

時代劇などでは、剣術の師匠などが未熟な主人公を精神的にも正しい方向へと導いていく、といった物語を目にしたことがあるでしょう。

師匠とは単に技術を伝達するだけの役割ではなく、人生における優れた先人としての一面も兼ね備えていたのです。

実際、歴史上の名将たちも、自分の息子に人格者の師をつけ、教育を受けさせていました。鎌倉時代以降、人の上に立つ武将を教える師匠の多くは、禅僧が務めています。

権力欲や金銭欲、性欲といった世俗的な誘惑に揺らぐことのない人たちだからこそ、武将も頭を下げて教えを請うのであり、まさに人格者ゆえに師匠たり得たのです。

その禅僧の教えによって救われ、見事な武将へと成長した一人が伊達政宗です。

東北地方で最大の領土を獲得し、“独眼龍どくがんりゅう”と恐れられた政宗ですが、師である虎哉禅師こさいぜんじがいなければ、その成人後の活躍はなかったでしょう。

なにしろ少年時代の政宗は、天然痘てんねんとうの後遺症で片目が不自由になったため、非常にその劣等感にさいなまれる、内向的な人物だったのです。