幕府に対する強い思い入れ
小栗忠順と勝海舟の問題意識=欧米列強への危機感は、ほぼ一致していたといっていいでしょう。
しかし、幕府に対する思い入れには、雲泥の差がありました。
祖父の代に旗本となった海舟は、日本を変えるにはもはや幕府の存在は邪魔であり、倒れるのもやむをえない、と内心は考えるようになります。
それに対して、先祖代々の三河武士の家系に生まれた小栗は、あくまで幕府を中心にした未来を想定していました。今からでも幕府の体制を改革していけば、欧米列強に対抗するのに、なんとか間に合う、と計算し、己れの活躍を信じていたのです。
大老の井伊直弼からも認められた小栗は、33歳で目付として遣米使節団に加わり、アメリカ合衆国のポーハタン号で、初めてアメリカの地を踏みます。時期は咸臨丸で渡米した海舟と、同じでした。
1860年当時のアメリカは、高層ビルが立ち並び、蒸気機関車が当たり前のように走り、空には気球が浮かぶという、日本では想像もつかない光景が広がっていました。
これらの最新技術に、日本の政府=幕府の目付として参加した小栗は圧倒され、日本との国力の差を痛感し、アメリカを見本として、かの国の実情を貪欲に学ぼうとしたのです。
ネジを大量に造れる技術をわれらも持つべき
小栗のその姿勢がよく表れているのが、ワシントンの造船所を見学した際の挿話かもしれません。
建造に必要なさまざまな部品が製造されている現場で、小栗は足元に一本のネジが落ちていることに気づきました。拾い上げてまじまじとそのネジを見た彼は、ハッとします。
日本では職人が手作業で一つひとつを削り出しているネジが、ここでは瞬時に大量生産されていたのです。そして、その何十本かが地面に落ちていても、誰も頓着(気にすること)をしません。ネジは、あふれ出てきますから――。
精密な部品も量産する技術を持つこの国に対し、いますぐ戦っても、到底かなうはずがない、と小栗は悟ったことでしょう。彼はそのネジを日本へ持ち帰り、「このようなネジを大量に造れる技術を、われらも持つべきなのだ」と周囲に説いて回りました。
このおりのネジは、今も群馬県高崎市にある小栗の菩提寺に、大切に保存されています。
帰国後、小栗はアメリカで目撃した大量生産設備の必要性を幕府に訴えますが、これに反対したのが勝海舟でした。
海舟は、そのような大掛かりな施設を建設する時間も資金も、いまの幕府にはない。
そのため、必要なものはその時々、外国から購入すればよい、と主張したのです。
対して小栗は、たとえば購入した黒船が故障した際に、どうするのかと問いかけました。その都度、欧米列強に修理を頼むようでは、自分たちの力で船一つ直せないことになり、真の独立国とは到底いえない、と反論したのです。
自前の技術力にこだわった小栗は、慶応2年(1866)に勘定奉行兼海軍奉行、つまり幕府の最高実力者となると、横須賀製鉄所の建設に着手しました。
製鉄所という名称ではありますが、ワシントンで視察したような造船所も兼ね備えた施設です。ここで陸海軍のための兵器や部品を建造し、一気に幕府軍の近代化を図ろうとしたのです。

