患っていたのは結核
そしてもうひとつ、「ばけばけ」の錦織は見せなかった「病状」である。
前述のように、第23週でようやくそういう姿が映されたが、モデルの西田は、かなり早い時期から結核を患っていた。梶谷泰之『へるん先生生活記』には、ハーンが明治23年(1890)9月、島根県尋常中学校に着任して最初の講演のとき、西田が止血剤や注射で喀血を防ぎながら通訳を務めた旨が書かれている。
また、明治24年(1891)になって、ちょうどセツがハーンのもとで住み込み女中を務めるようになる直前のこと。『西田千太郎日記』によれば、1月27日から2月11日まで、西田は結核の熱と咳のために学校を欠席し、ハーンが連日のように見舞っている。
西田のハーンとの距離について、また西田の病気について、セツが端的に語っている。それはハーンの死後にセツが口述し、筆記された『思ひ出の記』に記されている。少し長いが引用したい。
西田と過ごした最後の時間
「中学の教頭の西田と申す方に大層お世話になりました。二人は互いに好き合って非常に親密になりました。ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆いってくれます。本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です』。お気の毒な事にはこの方はご病身で始終苦しんでいらっしゃいました。『ただあの病気、いかに神様悪いですねー私立腹』などといっていました。また『あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません』。東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました」
明治29年(1896)2月、ハーンの帰化およびセツとの入籍の手続きが終わると、ハーン改め小泉八雲は、9月から東京の帝国大学に採用されることになった。そして、6月末から東京に転居するまで、八雲夫妻は、長男の一雄とセツの義母の稲垣トミ(「ばけばけ」で池脇千鶴が演じるフミのモデル)を連れて出雲に帰省し、2カ月にわたって滞在した。
このときも西田は、ハーンらが滞在する旅館に足しげく通い、ハーンと宴席をともにし、セツはあらためて西田宅を訪れて、あいさつや礼を述べている。出雲滞在の最後の1週間は、ハーンとセツが結婚を誓った記念すべき杵築ですごし、そこに西田も合流している。だが、それがハーンにとって、西田とすごした最後の時間になった。

