昭和になって発見された遺物
搦手道の先には、乾曲輪という出丸がある。北側に半島のように突き出ているこの曲輪上に、小さな祠が立っていた。
「六親眷属幽魂塔」とはこの縦長の石のことで、発見されたのは1973(昭和48)年と比較的最近。生えかけの筍のごとく、先端だけ地表からわずかに飛び出していたとか。
「六親眷属」とは、歴代の明智城城主・明智家とその一門のことを指す。地元民に愛された領主である一方で、謀反の末に討たれた逆賊を密かに慰霊するために、地中に隠しながら密かに手を合わせたのではないか(現地案内板より)。まるで隠れキリシタンが、観音像の中にマリア像を隠し祈りを捧げていたエピソードのような、実に興味深い話だ。
城の構造的にはやや技巧が足らず、知略に長けた光秀ゆかりの城らしさはないが、あくまで先代までの城だとすれば、さもありなん。この城は1556(弘治2)年9月、斎藤義龍に攻められ落城、城主だった光秀の叔父・光安は自刃している。この明智光安が、先に挙げた遠山影行と同一人物という説もある。
光秀の生年は諸説あるが、有力な説のうち最も遅い1528(享禄元)年だとしても、元服どころではなく、既に30歳間近。明智一族の一員として、このとき籠城していたとしてもおかしくない。
明智家親族を見殺しにした信長
明智城の麓には、明智一族の菩提を弔う天龍寺もある。先の「六親眷属幽霊塔」とともに、明智家とこの地域との関係性を示す手掛かりといえる。すでに消失してしまっているが、麓の農地の一角に「明智光秀産湯の井戸」と伝わる井戸も、昭和40年代まで存在していた。
こうしてみてみると、光秀が生まれたのはやはり、可児市の明智城の城下と考える方が自然な気がする。幼少期に父が亡くなったため、叔父の遠山影行の元に預けられ、その居城である恵那市の明知城で育てられたのではないか。
そして大人になり、再び明智城へ帰還し、斎藤家との戦いに敗れ流浪を余儀なくされた。確固たる裏付けはないが、辻褄は合う。ふたつの「あけち城」で見てきたゆかりの史跡にも説明がつく。
本能寺の変の動機がここに?
最後に、これも確固たる裏付けはないが、筆者の想像、いや妄想を記すことをお許しいただききたい。『明智軍記』によると、甥・光秀は明智家の再興を託され、落城寸前に密かに城を脱出したという。のちに仕える織田信長は、仇敵・斎藤家を討った男。御家再興を心に誓っていたとしたら。
まがりなりにも将軍である足利義昭から、当時は尾張・美濃の2国を支配するに過ぎなかった信長へと主君を変えたのも、合点がゆく。流浪の末、十数年ぶりに明智城へ帰還。
その頃、もうひとつの恵那の明知城は武田家との最前線だった。親族の地を守るべく、城を全面的に改修。あの凝りに凝った城の縄張には、もしや光秀の知恵も反映されているのではないか。
1574(天正2)年春、武田勝頼率いる2万の大軍が明知城へ攻め寄せてくる。城兵はわずか500。信長は3万の兵を率いて援軍に向かうも、武田軍の別働隊に退路を断たれそうになり撤退。そして城は落城し、光秀の親族達も落命する。
御家再興の恩人から、親族を見殺しにした非情の主君へ。この時から光秀の心には、やがて本能寺の変へと至る信長への恨みが、ふつふつと沸き上がっていったのではないか――。
あくまで歴史好き、城好きの「if」である。







