豊臣秀吉の側室・淀殿は、なぜ「豊臣家を滅ぼした悪女」とされたのか。江戸時代には「秀頼は秀吉の子ではない」という説まで広まり、“好色”“妖怪”とまで貶められた。だが同時代の史料に彼女の実像はほとんど残されていない。悪評はいかにして生まれたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
悪評は生前からついて回った
豊臣秀吉が没したのは、慶長3(1598)年。その翌年、中国地方の大名・毛利家の重臣が、大坂城で起きたある出来事を伝える書状を国許に出した。その内容が『萩藩閥閲録』の慶長4年(1599)12月2日の項に載っている。
「大野修理(治長)という御前のおぼえもよい人がお拾様(豊臣秀頼)の御袋様(淀殿)と密通するという事件が起き、修理を討ち果たそうとしたが、その後、宇喜多家に引き取られた」
大野治長は豊臣秀頼と淀殿の側近として知られる武将だ。その治長が淀殿と男女の関係にあったため成敗されそうになったが、結局は宇喜多家の預かりになったと記されている。
確かに治長は同年10月、一時的に流罪に処されているが、その理由は徳川家康の暗殺計画に加担した罪によるもので、預けられたのも家康の子・結城秀康が治める下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の結城藩だった。
この書状には家康暗殺未遂が密通に、結城が宇喜多にすり替わるという明らかな誤認があるため、もとより信用できる代物でもない。しかし、注目すべきなのは慶長年間の初期、すでに淀殿に「男にだらしない」という悪評がついて回っていたことである。なお治長は翌年、家康に許され関ヶ原の戦い(慶長5/1600年)では東軍に属した。
死後は「好色」「妖怪」の罵詈雑言
淀殿死後の評判はもっと酷い。ボロクソである。一例をあげよう。
「よどのきみ、顔よきのみならず、色好む性あり」(淀君は器量が良かっただけでなく好色だった)『胆大小心録』文化5(1808)年
「淀君蛇形をあらはす」(淀君の正体は蛇身の妖怪)『絵本太閤記 七編』享和2(1802)年
「淀君蛇形をあらはす」(淀君の正体は蛇身の妖怪)『絵本太閤記 七編』享和2(1802)年
「好色」「妖怪」――罵詈雑言の極みだろう。現代では和らいだものの、TVドラマなどに登場する際は相変わらず勝気でプライドが高い、いわゆる女狐タイプに描かれることが少なくない。決して好印象とはいえない。
最近でこそ淀殿と「殿」の敬称を付けて呼ばれるが、以前は「淀君」が一般的だった。「君」は侮蔑的な意味もあったという。
「(江戸時代の)最下級の遊女である辻君(夜鷹ともいった)、すなわち道端で春を売る女にことよせて淀君と呼んだ。そんな悪女が家康に逆らい、豊臣を滅亡に追い込んだ」(明治時代に刊行された『閨閤伝』より)
つまり豊臣は「淀君」という娼婦に毒され、それが理由で秀吉・秀頼のわずか2代で滅んだ――江戸から明治時代にかけては、そう捉えられていたわけだ。


