実像不明のまま「日本三大悪女」にされた
淀殿の母は織田信長の妹・お市の方、父は北近江の戦国大名・浅井長政。信長と長政が軍事同盟を結んだ永禄10(1567)年頃、協力関係の証しとして浅井に嫁ぎ、茶々・初・江の三姉妹を産んだ。浅井が信長に滅ぼされるとお市は柴田勝家に再嫁するも、勝家も羽柴秀吉に敗北。そして長女の茶々が秀吉の側室となり、豊臣の後継者・秀頼の母・淀殿と呼ばれる。
戦国の姫の波乱万丈のストーリーだが、実はその素顔は、前述の毛利家臣書状のような噂レベルのものを除くと、同時代の史料にほとんど載っていない。早い時期には実名の「ちゃちゃ(茶々)」、秀吉の側室になって以降は「淀の女房」、秀頼を産んで伏見城に移ると「西の丸殿」(城の西の丸に居住したため)、「お袋様」などと呼ばれているのが確認できるくらいで、慶長期に書かれた『甫庵太閤記』にも出てこない。
北条政子・日野富子と並ぶ「日本三大悪女」といわれるほど著名なのに、実像がほとんどわかっていない。それにもかかわらず、人々は悪女と決めつけたのである。
「豊臣秀頼は秀吉の子ではない」説まで登場
淀殿の悪評の根源にあるのは、詰まるところ豊臣秀頼は秀吉の実の子ではなく、不貞を働いて産み、豊臣の後継者とするのに成功した、と噂された点にあるだろう。
その不貞の相手、つまり秀頼の実父と目されたのが秀頼の乳母・大蔵卿局の息子、大野治長だ。冒頭の毛利家臣の書状も、治長が秀吉存命中から淀殿と関係があったと匂わせている。
実際、秀吉は長らく子宝に恵まれなかったのに、淀殿は側室になるや、ほどなく身ごもった。鶴松と名付けられた第一子は3歳で夭折したが、2年後には秀頼が誕生した。秀吉には若い頃から連れ添った妻・寧々に加えて側室も大勢いたのに、淀殿だけが2人も懐妊するのはおかしいと、周囲は騒いだ。
淀殿と治長密通の噂が流布していた形跡は、他にもある。例えば奈良興福寺の塔頭多聞院に残る『多聞院日記』。
この話も風聞を書き留めただけで、根拠はないように思える。ただ、こうした記載がもとになって後世、秀頼の実父は治長という噂がまことしやかに流れてしまい、それが「淀殿好色説」につながっていったのは確かだろう。

