家康は、淀殿の弱みを知っていた
実質的な城主である以上、時代の変化を察知し、政治をつかさどる任務があるが、淀殿は政は素人で、天下がすでに豊臣から徳川に移行しつつある現状も認められなかった。
慶長10(1605)年、徳川家康は秀忠の2代将軍就任の祝賀のため、北政所を通じ秀頼の上洛を求めた。淀殿は激しく反発し、そんな事態になったら、「秀頼公を生害せしめ、その身も自害あるべし(秀頼を殺し、自分も死ぬ)」と、突っぱねたという(『当代記』)。
淀殿自身も健康を害していたらしい。徳川との対立が深まると不眠に陥ったと、お付きの医師・曲直瀬道三が書き残している。精神も不安定だったのだろう。
そんな状態にいた女性が徳川との戦いを望む好戦派だったとも思えないが、家康は豊臣方がそろって政治も、戦も、経験不足だったところを突いて、大坂の陣を仕掛けた。
戦いは家康の思惑通りに展開し、慶長20(1615)年の夏の陣で淀殿と秀頼は自害して果てる。
淀殿に豊臣滅亡の責任を押し付けた
戦後、徳川には「豊臣を滅ぼした」との汚名を着せられるリスクが生じた。特に大坂では太閤秀吉の人気がいまだ高かったため、批判を回避すべく、「滅亡したのは淀殿がいたから」と、責任のすり替えが始まった。
江戸幕府が文治政治の時代に入った17世紀後半、「雌鶏うたえば家滅ぶ」ということわざが流布するようになった。
これは中国の歴史書『書経』にある四字熟語「牝鶏之晨」を語源としたもので、雌鶏が雄鶏より先に鳴いて朝を知らせるという意味を持つ。そこから転じ、女性が男性に代わって権勢を振るうのは、国や家に不吉が起きる前兆だと示唆しているのである。
豊臣は女性の淀殿が実権を握ったため、自滅した。その後を統治している徳川は有能な男性将軍ばかりで、だからこそ正当性があるというわけだ。
令和の社会なら大バッシングを受ける男尊女卑の思想だが、17世紀はこれが当たり前だった。淀殿はそうした時代の汚名を、一身に背負った女性だったといえる。
淀殿の本性が「娼婦」「妖怪」などと、誰か見たのか?
参考文献
・山口県文書館編『萩藩閥閲録』(マツノ書店、1995年)
・中山幽夢『新編/閨閤伝』(叢書閣、1886年)
・原武史『〈女帝〉の日本史』(NHK出版、2017年)
・桑田忠親『人物叢書 淀君』(吉川弘文館、1985年)
・北川央『大坂城をめぐる人々 その事跡と生涯』(創元社、2023年)



