頼れたのは大蔵卿局と大野治長だけ
秀吉と、秀頼の傅役だった前田利家が死去したのち、淀殿が頼りにできた相談相手は大蔵卿局と治長しかいなかったろう。つねに治長を側に置いている姿を見れば、「2人は男女の仲」であると邪推されるのも、やむを得なかったとは思う。
しかし、だからといって、状況証拠だけで「デキている」と断じてしまうのはどうなのだろう。しかも、こうした風潮は今も昔も変わらない。
なお、秀吉には長浜城主だった時代(天正元/1573年頃)に、母親は不明だが「秀勝」(幼名・石松丸)という男児が誕生し、天正4年(1576)に死去したという伝承もある。
もっとも秀勝が実在したのか、実在したにせよ本当に秀吉の実子だったかは、歴史研究者によって意見が分かれ、真相は不明だ。だが、事実であれば秀吉に子が生まれなかったというのは噂に過ぎなかったことになる。
また、戦国期は幼児の死亡率が高かったろうから、他に記録に残らず死亡した落とし胤がいたとしても、不思議とは思えない。
北政所を慕う勢力から向けられた反感
いずれにせよ、淀殿を中傷する噂は多く、これは彼女の存命中からその存在を疎ましく思う者がいて、貶めようとしていたことを物語っている。
秀吉の晩年、妻たちには明確な序列があった。第一の座は正室の北政所(寧々)。第二が秀頼を産んだ淀殿。その後に京極竜子らの側室が続く。これは慶長3年(1598)に秀吉が催した「醍醐の花見」において、女性たちが乗った輿の順番によってわかっている。
この花見の宴席で、秀吉から賜る盃の順をめぐって淀殿と竜子が言い争いになり、北政所が仲裁して収めたと、加賀前田家の重臣が記録に残している。事実なら、淀殿は北政所に頭が上がらなかった。
だがこの頃、秀吉は異常なほど秀頼を溺愛していた。会えない時間が長いと「再会したら口を吸ってあげよう」と手紙を書き、諸大名には秀頼への忠誠と、背いた場合は成敗するという誓書まで提出させていた。こうした深い愛情を背景に、「御袋様」である淀殿が増長してもおかしくはなかったろう。
さらに秀吉が死ぬと、秀頼と淀殿はそれまで住んでいた伏見城から大坂城に入った。慶長4年(1599)正月のことだ。以降、淀殿が秀頼の後見となる。
その8カ月後、入れ替わるように北政所が大坂城を去った。秀吉に仕えた豊臣恩顧の大名には北政所を敬愛する者も多く、その筆頭が加藤清正や福島正則だったといわれる。しかし、彼らからしてみれば淀殿が秀頼の後ろ盾となり、実質的な大坂城主としての権限を持つのは面白くなかったと考えられる。

