自分で「選べるもの」は脆い

美容整形が一般的になり、お金をかければいくらでも見た目を美しくできるようになると、「見た目が悪い」ということは、運が悪いことではなく「努力していない」ことの現れになる。

身の回りの多くのものが自己決定で選べるようになってきているのは、一見すると、否定しようのない良いことのように思える。一方で、自分で決めたこと、自分で選んだものは、実は心の支えにはなりづらいのではないだろうか。

私自身、歳を重ねるにつれて、自分の意思で選べなかったもの、所与の前提として与えられていたものこそが、自分自身を形作る重要なパーツになり、心の支えにもなっていた、と感じることが増えている。家族や生まれた場所など、自分の意思で選べなかったものこそが、自らのアイデンティティになる。

アイデンティティを自分で選ぶ、自分で決める、ということは、実は難しい。自分の意思で決めたということは、自分の意思でいつでも変えられる、捨てられるということだ。そうした流動的なものは、果たして心の支えになるのだろうか。

ワーキングイベントで、多様な人々がそれぞれ小さなグループで立ち話をしている
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変えられないものが人生の免疫力を高める

そう考えると、「自分のやりたいこと」だけをやっている人生、「自分の好きな人」とだけ付き合っている人生は、本当に幸せなのだろうか、という問いが湧き上がってくる。

根性論でも精神論でもなんでもなく、自分の意思で変えられないもの、選べないもの、変えられない他者と向き合っていく努力をしない限り、人間は成長も安定もできないのではないだろうか。

そう考えると、「選んだ孤独」「望んだ孤独」を満喫している人よりも、「望まない孤独」に向き合って苦しんでいる人のほうが、主観的にはともかく、客観的には成長や安定に向かっているはずだ。そうした物語で日々を構造化できれば、孤独は決して怖くない。私たちの社会では、個人の自由が重んじられている。それ自体は大切なことであるが、制限なき自由、制約なき自由は、自由落下(フリーフォール)にすぎない。それを求めたところで、「落ちて死ぬだけ」である。制約があるからこそ、自由は意味を持ち、輝きを増す。