道路は倍くらいに拡幅されたが…
これを「チャンス」と捉えたのが、当時の熊本県令・富岡敬明だった。なんと籠城中から戦後の都市計画を構想し、包囲が解けるや否や、すぐさま政府に市区改正費10万円を要求している。焦土と化した城下に家が建ち始める前に道路を広げてしまおうという発想だ。財源には窮民救助のための救恤金を流用するという強引さで、とにかくスピード重視で復興を進めた。
実際、それまで3間(約5.4メートル)程度だった主要街路は6間(約11メートル)に拡幅され、歩道と車道の分離まで導入された。当時の新聞は「九州第一の都會」になるだろうと煽り立てた。
ところが、である。道路こそ広がったものの、街区の基本構成は城下町時代のまま変わっていない。つまり、通りは立派になったが、その両側に並ぶのは城下町の区画に押し込められた「卑小家」の列だ。城下町の風情は焼失で消え去り、かといって近代都市としての都市構造にも生まれ変われなかった。
今風に言えば、こういうことである。老朽化した駅前商店街を「再開発だ!」と言って更地にした。道路は広くなり、駅前ロータリーあるいはペデストリアンデッキはできた。ところが、タワマンの商業フロアはテナントが埋まらずスカスカ、旧来の商店街の賑わいは消え、かといって新しい都市の魅力も生まれていない(同じ九州でいえば福岡市の香椎が代表例。「西の西新、東の香椎」といわれた商店街が再開発で潰滅。旧来の賑わいが失われ筆者としては非常に残念)……あの既視感である。
「軍施設」が駅と市街地の間を分断していた
さらに問題だったのは、熊本が「軍都」として再建されたことだ。1886年には第五高等中学校の誘致に成功するなど、教育都市としても発展する一方で、一貫して軍の存在は大きかった。
結果、富岡案による整備が開始された時点では、現在の練兵町、辛島町あたりには巨大な練兵場が鎮座しているままだった。この練兵場が移転したのは1900年。一方、九州鉄道が熊本駅まで延伸したのは1891年である。つまり、鉄道が開通した時点で市街地の間を、軍の施設がどんと分断していたのである(松澤真由美「西南戦争後の復興街路計画にみる熊本城下の近代都市づくりの第一歩」『熊本都市政策』vol.7)。
こうした事情が積み重なり、熊本市はJR駅と市街地が離れたいびつな都市として現在に至っている。要は、街づくりでとことんしくじってきたというわけだ。
こう見てくると、八雲のディスりは単なるワガママではなかったことが分かる。「とてつもなく長いとおりに卑小家が建ち並ぶ」「立派な寺院や神社はなく」「薄暗く、むさ苦しい」――これらはいずれも、中途半端な復興と軍都化がもたらした熊本の構造的な問題を、外国人の目で正確に捉えた描写だったのだ。
松江には城下町の風情がそのまま残り、神社仏閣が溢れ、八雲にとっての「日本の面影」そのものだった。熊本は、その風情を西南戦争で失った上に、代わりに得たものが軍の施設と中途半端に広い道路だけだったのである。

