道路は倍くらいに拡幅されたが…

これを「チャンス」と捉えたのが、当時の熊本県令・富岡敬明だった。なんと籠城中から戦後の都市計画を構想し、包囲が解けるや否や、すぐさま政府に市区改正費10万円を要求している。焦土と化した城下に家が建ち始める前に道路を広げてしまおうという発想だ。財源には窮民救助のための救恤金を流用するという強引さで、とにかくスピード重視で復興を進めた。

実際、それまで3間(約5.4メートル)程度だった主要街路は6間(約11メートル)に拡幅され、歩道と車道の分離まで導入された。当時の新聞は「九州第一の都會」になるだろうと煽り立てた。

ところが、である。道路こそ広がったものの、街区の基本構成は城下町時代のまま変わっていない。つまり、通りは立派になったが、その両側に並ぶのは城下町の区画に押し込められた「卑小家」の列だ。城下町の風情は焼失で消え去り、かといって近代都市としての都市構造にも生まれ変われなかった。