ぐっと堪えて辛抱した3年間
要するに、八雲が求めていたものが何ひとつない街だったのだ。
なにも文化がなく、ただ官僚やら軍人やらが闊歩して、それのおこぼれにあずかるだけで経済が回っている土地である。今でも熊本市というのは、天草や八代とは段違いに役人が威張っている土地だが(筆者の体験)、明治の世ならなおいっそう酷かっただろう。
いくら給料が倍になるとはいえ、ここは八雲にとっては悪夢のような土地である。決して長居などできない。
かつての八雲なら「やってられるか!」と3日も持たずに辞表を提出しただろう。なにせ、日本に訪れた時に滞在費のあてにしていた『ハーパーズマンスリーマガジン』との契約を、同道の挿絵画家のほうが原稿料が高いと激怒して、破棄したくらいに気が短い。
ところが、八雲はそうしなかった。ぐっと堪えて3年間も辛抱したのである。
それはなぜか、日本に来る時は独身。失う物などなにもなく、やぶれかぶれでアウトローな作家であった。しかし、いまは自分には生涯縁がないと思われた愛すべき妻と家族がいるからだ。
「大黒柱」としての確固たる責任感
熊本滞在中に、この職を紹介してくれたバジル・ホール・チェンバレンに宛てた手紙の中に八雲はこう記している。
八雲には自分が大黒柱であり、家族を養わなければならないという確固たる責任感があった。しかも、セツとその家族達も自分を単に「稼ぎのよい婿」みたいには扱わない。食事は、まず八雲が最初で、八雲が食べ終わるまではずっと待っているのである。現代からすると、いささか過剰だが、そこまでの信頼と期待がセツの家族にもあったわけだ。
だから、八雲も様々なことで癇癪を起こしそうになりながらも「俺には家族があるんだ」とじっと我慢し続けていたのだろう。
しかも、熊本に移ったあとの1893年には長男の一雄も生まれている。これが、八雲の覚悟を決定づけたはずだ。
この時、八雲は43歳。明治の世では、もはや初老と言っていい年齢である。凡庸な人ならば、この年齢になっていれば「今さら子供なんて」と思うところだろう。しかし、八雲はまったく違う。一雄の誕生で、完全に人生観が変わったのだ。

