大和守清須織田家は3つあった
清須織田家は当主が相次いで死去したこともあり、三つの分家を三奉行として取り立て政務の安定を図った。具体的には以下の三家である。
織田因幡守家
織田藤左衛門家、または小田井織田家ともいう。
織田弾正忠家、または勝幡織田家ともいう。信長の家系。
『寛政重修諸家譜』では信長の曾祖父を織田大和守敏定としているが、それは清須織田家を興した英雄だから、その子孫を僭称しているのであって、実際の曾祖父は三奉行の一人・織田弾正忠良信だといわれている。
そして、良信の子・織田弾正忠信貞が勝幡に城を築き、勝幡織田家と呼ばれるようになる。勝幡は木曽川流域の商業都市・津島(愛知県津島市)の北東に位置しており、津島の支配により勝幡織田家は経済力を蓄え、信貞の子・信秀の時代に飛躍の時を迎える。
信長の父は清須が後ろ盾だった
信長の父・織田弾正忠信秀は、信貞の子として生まれた。信長が織田一族の両守護代家(清須織田家、岩倉織田家)を倒して尾張を統一したため、父・信秀もまた尾張統一を志し、その障碍となる両守護代家と対立していたと従来は考えられていた。しかし、近年の研究では、信秀が清須織田家と協調関係にあり、むしろ、清須織田家の支援を受け勢力を拡大してきたと指摘されている。
たとえば、信秀は天文9(1540)年に3000の兵を率いて、三河松平家の支城・安城城を攻め落とし、庶長子・織田三郎五郎信広を守将に据えた。仮に尾張国内で織田一族との死闘を繰り広げていたなら、三河に出兵して、庶長子を城将として置いたりしないだろう。後述するように、信秀は美濃攻めで後方支援を担当している。清須織田家の中では三河方面を担当し、美濃方面は別の部将が割り当てられていたと考えた方が合理的だ。
信秀は那古野城(名古屋市北区)を調略で落として勝幡から移り、さらに天文15(1546)年頃、嫡男の信長を那古野城に残して、熱田神宮近くの古渡城(名古屋市中区古渡町)に本拠を移した。

