伊勢守と大和守の2派に分かれた

やがて斯波家では斯波義敏・斯波義廉よしかどの家督争いが勃発し、応仁・文明の乱の端緒の一つとなった。織田家も守護代・織田伊勢守敏広と一族の織田大和守敏定に分かれ、それぞれ義廉と義敏についた。

文明8(1476)年11月に敏定が下津の守護所を焼き、下津を在所としていた敏広は丹羽郡岩倉(愛知県岩倉市下本町。下津城の東北東)まで逃げ落ちた。文明10(1478)年8月、敏定が尾張守護代に任じられ、守護所を清須村(愛知県清須市清須)に移した。清須織田家のはじまりである。

現在の清洲城(愛知県清洲市)
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現在の清洲城(愛知県清須市)

翌文明11年1月に敏広と敏定の和議が成って、下二郡が敏定に割譲された。

以来、敏定の子孫・清須織田家(織田大和守家ともいう)が下二郡を支配して守護代を務め、敏広の子孫・岩倉織田家(織田伊勢守家ともいう)が上四郡を支配することとなった。

【図表1】織田家の系譜