「私は才能があるのに、生まれ育った家が貧しかったため、オペラ歌手になれなかった」。そう思い込んでいる母親は、自分の夢を3人姉妹の中間子に託した。中間子の女性は、過干渉な母親の夢を一身に背負い、姉や妹からいじめられながらも音大を目指したが、試練に襲われる。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが現在50代の女性の激動の半生を取材した――。(前編/全2回)
ピアノを弾く子供の手元
写真=iStock.com/TUNG Chooi Yoong
※写真はイメージです

厚生労働省によると、2025年3月時点の生活保護の申請件数は、2万2484件(前年同月比867件増加、4.0%増)。生活保護を開始した世帯数は、2万395世帯(同1062世帯増加、5.5%増)。賃金は上がらず、物価が異常に高騰する中、さらに生活保護が必要な人々が増えるのは必至な状況だ。

介護や毒親の取材現場で筆者が以前から気になっていたのは、経済的な困窮者が生活保護を忌避するケースが多いことだった。その背景には、不正受給問題はさることながら、生活保護の仕組みの複雑さや“得体の知れなさ”が影響しているのではないか。そんな問題意識を胸に、かつての生活保護受給者の話を通じて制度の実態を明らかにし、正しく救われる人や機会を増やしていきたい。

「うちの娘たちは音楽の才能がありますか?」

現在関東地方在住の月安花織さん(仮名・50代)は、九州地方で姉と4歳違い、妹とは1学年違いの、3人姉妹の中間子として生まれた。

姉が小4、月安さんが幼稚園年長、妹が年少の時のこと。母親は、家のすぐ近所の地域では有名なピアノ教室に3人姉妹を入れると、2年ほど経った頃、おもむろに尋ねた。

「先生、うちの娘たちは音楽の才能がありますでしょうか?」

ピアノ教師の答えはこうだった。

「上のお子さんは才能があります。楽譜をパッと見せられたら、パッと弾く、初見演奏が得意です。でも、初見の才能があるせいで飽きっぽいところがあります。次に才能があるのは、下の、一番下の娘さんです。上の娘さんほどではないですが、初見の才能がありますし、『そこはこういうふうに弾いてちょうだい』と言うと、すぐにそのように弾けます」

それを聞いた母親は、納得いかない様子で食い下がった。

「いやいや、我が家の一番の期待の星は真ん中の娘なんです! 真ん中の娘は才能がないのでしょうか?」

ピアノ教師は目を伏せながら言った。

「はい、真ん中の娘さんには音楽の才能はありません……。ただその代わり、何度注意されても、泣きながらでも諦めずに弾き直し続けるので、たぶん3人の中で一番大成する可能性が高いと思いますよ」

後半の言葉は母親の耳には届いていなかった。頭を金槌で殴られたかのような大きなショックを受けた母親は、「この先生、見る目がないわ」と呟くと、そのピアノ教室を後にした。

「うちの母的には、『真ん中の娘は才能ない』って言われたのがすごく頭に来たらしくて。そこで娘たち全員を辞めさせて、他のピアノ教室に移ったんです」

この時点で、姉は「もうピアノなんてやりたくない」と言って脱落。妹は中1の時に辞めた。唯一残った月安さんは、学校から帰るとピアノや歌の練習に明け暮れた。母親が声楽とピアノの先生をつけ、音大を目指し、将来はオペラ歌手になるように促したのだ。

月安さんの母親は、なぜこれほどまでに娘たちに音楽を学ばせたがったのか。それは、母親の子どもの頃の夢がオペラ歌手だったからだった。

「声が一番きれいなのはあなただわ」

「母は子どもの頃、親友と歌のお稽古に通うことを夢見ましたが、母の家は貧しく習い事ができなくて、悔しい思いをしたようです。その後、親友は音大に進み、海外留学を経て、世界的に有名なオペラ歌手になりました」

母方の祖母の話によると、母親は高校受験に失敗して家出をした後、音信不通になり、勝手に結婚すると、突然何もなかったかのように我が物顔で実家に乗り込んでくるようになったという。

歌うことが諦めきれなかった母親は、家出をした後、物販の仕事を転々としながら歌う場所を探し求めた結果、キリスト教の教会で讃美歌を歌っていた。そこで、同じく歌うことが好きで教会にきていた父親と出会い、お互いが22歳の時に結婚。翌年月安さんの姉を出産したわけだ。

生まれた時に体が弱かった月安さんに対して、母親は姉や妹よりも過干渉な育て方をした。暗示のように繰り返し聞かされたのは「あなたは20歳まで生きられないかもしれないんだから、死ぬまで私の側から離れないでね」というセリフだ。

朝、少しでも体調がいつもと違うと、有無を言わさず学校を休まされた。そのせいか月安さんは、気づけば自分のしたいことや欲しいものがわからない子どもになっていた。

「学校から帰ると、姉や妹が今日学校であったことなんかを競うように母に話すのですが、『一度に話すとわからないから順番ね』って言われて、私の順番が来て『はい、じゃああなたは?』って言われるのが一番困りました。『何を話せばいいんだ?』みたいな、そんな感じです」

ピアノ教室でも家のお手伝いでも、姉と妹は、自分が嫌なことは「面倒臭い」「やりたくない」と自分の意思表示をして、要領良く辞めたり逃げたりしていたが、自分がどうしたいのかわからない月安さんはいつも戸惑った。

「先に2人に逃げられたら、残った私は逃げられないじゃないですか。私は母親に媚を売っているわけではなくて、ただ単純に逃げ遅れていただけなんです。そうしたら母に、『3人の中で声が一番きれいなのはあなただわ。音楽の才能がある!』って言われちゃいました」