真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六は、どんな人物だったのか。旧越後長岡藩の藩士の六男として生まれ、誰よりも学問を修め、誰よりも負けず嫌いで、誰よりも頑張る少年だったという。別冊宝島編集部編『知れば知るほど泣ける山本五十六』(宝島社)より、一部を紹介する――。
訓練を切り上げ、日露戦争の最前線へ
18歳当時、まだ高野五十六であった山本は、海軍兵学校の第32期生であった。32期生が卒業したのは日露戦争の真っただ中。そのため、五十六たち32期生は卒業を切り上げて、少尉候補生として日露戦争に従軍することになった。
通常であれば、海軍兵学校を卒業した若き士官候補生たちは、卒業後、6カ月から8カ月に及ぶ遠洋練習航海に出る。そこで、太平洋沿岸の各地の港に寄りながら、遠洋航海に慣れるのだ。これによって、長き艦内生活を体験し、士官としての自覚と技能を学ぶ。同時に、世界各国に寄港することによって、国際性も身に付ける。訓練を兼ねた卒業旅行ともいえる。
しかし、五十六たち32期生は、戦争が始まっていたため、約2カ月の国内巡航だけ体験し、戦争の最前線に放り込まれることになった。
集中砲火でバルチック艦隊を壊滅させる
五十六の配属先は一等巡洋艦「日進」である。「日進」は巡洋艦であるが、日露戦争では第一艦隊の旗艦を担っていた。「日進」での五十六の仕事は艦長の伝令を務めることであった。当時はマイクやスピーカーの設備はなく、館長の命令は伝令が伝えていた。兵学校を卒業したばかりの五十六にはふさわしい仕事だった。砲撃の最前線に行くことはほとんどない。
この「日進」で五十六は日本海海戦を目の当たりにする。東郷平八郎連合艦隊司令長官は日本海でロシア帝国海軍のバルチック艦隊を迎えうち、一か八かともいえるギリギリのT字戦法で敵を殲滅した。東郷が乗っていた戦艦は「三笠」であり、第一艦隊第一戦隊の最先頭に立っていた。「日進」はしんがりを務め、バルチック艦隊の砲撃を嫌というほど浴びた。
しかし、「日進」は致命傷を受けることなく、逆に、バルチック艦隊に集中砲火を浴びせ、敵艦隊を壊滅したのだ。

