なぜ真珠湾攻撃は成功したのか。計画を構想・指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は、もともと日米開戦に反対していたが、最終的には正反対の決意を固めることになった。別冊宝島編集部編『知れば知るほど泣ける山本五十六』(宝島社)より、一部を紹介する――。
写真=Wikimedia Commons
真珠湾攻撃 - 攻撃後の航空写真(写真=Unknown author/Public domain/Wikimedia Commons

「飛行機でハワイを叩けないものか」

山本五十六は、いつ真珠湾の奇襲攻撃を考えたのだろうか? 定説は目黒の海軍大学校で図上演習をしていた時の1940(昭和15)年の11月下旬といわれている。

しかし、半藤一利は『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(文春文庫)で、それより8カ月前だと書く。8カ月前の3月、五十六は、第一航空戦隊司令官が指揮する魚雷を装着した艦上攻撃隊による、戦艦戦隊を目標とした昼間雷撃訓練を実施した。

その時、艦上攻撃隊の激しい追撃と魚雷の投下で、戦艦があっけなくやられている姿を目撃している。あくまで演習だから戦艦は火だるまになるわけではないが、魚雷が艦底をあっという間に通り抜ける様子を見た。

その様子を見た五十六はポツリと言った。

「飛行機でハワイを叩けないものか」

半藤は、これが真珠湾を構想した最初ではないかと書いた。

ほかにも、この時期、五十六はイギリス海軍の艦載機による地中海のイタリア・タラント軍港への攻撃を知った。艦載機が急襲して、たった21機でイタリア戦艦6隻のうち3隻を大破させた。

「航空攻撃は戦艦に効かない」という常識

真珠湾攻撃のすごさは、航空部隊による奇襲攻撃であったことだ。空母で敵地に接近し、空母から飛び立った飛行機部隊による爆弾投下で敵艦隊を壊滅する。

これは、それまでの世界の戦闘でほとんど試みられたことがない。世界の常識では、航空攻撃は、動いている戦艦には当たらないとバカにされていた。五十六はこの概念をひっくり返した。港に泊まっている戦艦なら当たるのだ。

五十六は、アメリカで飛行機の可能性を目の当たりにしてきた。そして、航空部隊を一から育ててきた。戦艦に偏りがちの海軍将校たちにあって、山本だけは航空部隊の力を信じていたのだ。山本は、真珠湾攻撃の構想を実現すべく、生え抜きの飛行将校であった大西瀧治郎少将に真珠湾奇襲攻撃の研究を指示している。

大西は、その構想を聞いて、

「すごいことになったな」

と胸の高鳴りを抑えることができなかったという。