享保の改革を行い、頭脳明晰で知られた老中・松平定信。系図研究者の菊地浩之さんは「大河ドラマ『べらぼう』で定信は一橋治済と将軍家斉によって老中の座を追われたが、定信の息子たちも老中になり、定信ブランドは揺るがなかった」という――。

「べらぼう」では治済の陰謀で定信が更迭

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で老中首座・松平定信(井上祐貴)が大老の座を望むも、屈辱的な形で罷免された。定信を支えていた本多忠籌ただかず(矢島健一)、松平信明のぶあきら(福山翔大)が、将軍の父・一橋徳川治済はるさだ(生田斗真)と談合して定信失脚への道筋を整えたのだ。

治済と定信は共に名君・8代将軍吉宗の孫であり、実の従兄弟。徳川御三卿の出身ではあるが、立場には大きな隔たりがある。田安家の定信は久松松平家の子孫の婿養子に出された。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で、家康(松本潤)の母・於大の方(松嶋菜々子)と再婚した久松俊勝(リリー・フランキー)との間に生まれた子どもが、松平姓を賜ったものだ。久松家は菅原道真の末裔を称し、梅を家紋とする。だから、定信は徳川の三つ葉葵を身に付けていないのだ。

徳川将軍家では他家へ養子に行った人間は、徳川家に戻って来られない不文律があったらしい。だから、定信は将軍候補から外されたし、その後も三つ葉葵紋を付けることはなかった。かたや、治済は御三卿一橋家の当主にして将軍の実父なので、家紋は当然三つ葉葵だ。

定信は老中首座就任と引き替えに、治済の5男・徳川斉匡なりまさに田安徳川家を相続させるヤミ取引を行った(田安徳川家は定信の実家だからだ)。実際、天明7(1787)年6月13日に斉匡が田安徳川家を相続し、その6日後に定信が老中首座に就任したので、どちらが言い出したかは別として、連携強化の一環として養子縁組が行われたのだろう。

徳川直系である「御三卿」の勢力争い

徳川家は明治維新で滅ぼされてしまったと誤解される方もいらっしゃるが、徳川宗家(=将軍家)と御三家(尾張、紀伊、水戸家)、御三卿(田安、一橋、清水家)は現在も続いている。その血脈をたどっていくと、半分は田安徳川斉匡の子孫、つまりは一橋徳川治済の子孫なのである。

実に徳川宗家、尾張家、紀伊家、田安家の4家が田安徳川家の血筋を引いている(徳川宗家は水戸家と田安家のハイブリッドなのだが)。たとえば、戦時中の尾張徳川家の当主・徳川義親よしちかは田安徳川家の血を引いており、政治家であり外交上手。マレー半島で「虎狩りの殿様」とも呼ばれ、大変な傑物だったのだが、徳川家の中でも威勢の良い家は「田安ばかり」と自慢していたという。あの時のヤミ取引が効いたのだ。

『寛政武鑑』(寛政5年:1793年発行)より
『寛政武鑑』(寛政5年:1793年発行)より