当時、国鉄には主な労組が3つあり、厳しくせめぎ合っていた。本社は最大労組に接近し、共同で「1企業1労組」の実現を目指す。だが、仙台管内は最大労組の組合員が珍しく半数止まりで、勢力拡張を目指して先鋭的な活動に走っていた。
問題は、毎日のように起きた。保線区の管理職が、ある労組の役員の仲人を引き受ければ、別の労組側が「組合間に差をつける不当労働行為だ」と言い出す。駅長への昇格試験では、一方の労組幹部から着任の歓迎会に誘われたらどうするか、といった問答が、長い間、続いていた。模範解答は「すべての労組の人間がそろっていない限り、出席しない」という、おかしなものだった。
中央の労使幹部は、そろって「うまくやってくれ」と言う。でも、長い物に巻かれるのは大嫌い。自らが進むべき道こそなかなか確立しなかったが、問題に遭遇すれば「何が正しいか」を考え、正しいと思うことだけをやる姿勢は、固まっていた。その覚悟に基づいて、現場の労使間で勝手に結んでいた約束、いわゆる「ヤミ協定」の是正も進める。
反発した仙台の地方本部が、何度か中央本部にストライキの承認申請を出す。中央本部は困った。ストを承認しないと、現地で勝手に「山猫スト」をやられ、中央の指導力不足が露呈する。承認すれば、世間の強い批判を浴びる。結局、「葛西さんに早く転勤してもらおう」との結論に至り、栄転運動を始めた。予定よりも1年早く本社に戻ることになったのは、そのためだと思っている。
国鉄は64年に赤字へ転落した。以後、財政投融資など借金への依存を深め、経営は急速に悪化する。根幹に、政治の強い介入と役所の政治への迎合があった。運賃、賃金、設備投資など重要なことはすべて、政治の舞台で駆け引きされ、国会で決まる。その結果、運賃の値上げが遅れ、赤字ローカル線の廃止は先送りされ、余剰要員の削減も見送られるなど、必要なことが「不十分、不徹底、時機遅れ」となり続けた。
そんな状況のなか、仙台で不惑の歳を迎えるまで「一生、ここに勤めよう」と思ったことはない。自分にとってもっと大切だと思うことがみつかれば、いつでも飛び出すつもりできた。でも、本社へ戻るときには「鉄道は天職」と思い定めていた。現場には、苦労を重ねている管理職が大勢いる。過去を清算し、彼らを少しでも楽にしてあげたい。それを一生の仕事にしよう、と決めた。