金融危機の嵐が残してくれた財産
1998年夏から秋にかけて、銀行に入ったころには想像もしなかった危機を経験した。三井銀行と太陽神戸銀行が合併してできたさくら銀行(現・三井住友銀行)の東京営業第6部で、電力やガス、石油などのエネルギー産業やセメント、化学などの企業への融資を担当していたとき、44歳だった。
前年から巻き起こった戦後最大の金融危機のなか、北海道拓殖銀行が経営破綻し、「次は、どこの銀行が行き詰まるか」との声が、世の中に飛び交う。さくら銀行にも、経営不安説が流れた。バブル崩壊に伴う不良債権の膨張に対し、十分な自己資本がないのではないか。そんな観測の下、いくら「うちは大丈夫だ」と力説しても、株価は下落を続けた。
危機突破に、首脳陣は、有力企業に新規に発行する株式を買ってもらうことで、自己資本の増強を図ることを決める。トップ自ら、三井グループやトヨタ自動車など親密な取引先に、増資引き受け要請に回った。自分たちも、手分けして、取引先へ頭を下げに出向く。市場の風圧は、日増しに荒々しくなっていた。
こんな欧州の小話を、聞いたことがある。森の中を2人の旅人が歩いていたら、狼の遠吠えが聞こえた。1人が「僕たち2人が、狼より速く走れるかどうかが大事だね」と言った。すると、もう1人が「いや違うよ、きみと僕のどちらが、速く走れるかだ」と応じた。どちらが先に安全圏へ逃げ込めるか、どちらが逃げ遅れて食われるか。当時の金融界は、そんな状況下に置かれていた。
風圧に押し倒される前に、資本の増強が整うか。多くの金融機関が、時間との闘いを続けた。日本長期信用銀行(現・新生銀行)と日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)が、間に合わず、一時国有化へ追い込まれていく。さくらは、首脳陣以下、それぞれができることを尽くしたことが実を結び、嵐を乗り切った。