政権運営を支えた秀長の役割
天下人秀吉を支える“弟”としてあった家康と秀長であるが、その役割は異なった。
秀吉、秀長、家康の三人について、大和興福寺(奈良県奈良市)の僧侶が記した『多聞院日記』天正14年(1586)11月2日条では、国内秩序が乱れ「一揆ノ世」となってしまったら、「秀吉ハ王ニナリ、宰相殿ハ関白ニナリ、家康ハ将軍ニナル」(秀吉は国王となり、宰相殿〔秀長〕は関白になり、家康は将軍になる)という人々の認識を記している。
この背景には、天下人秀吉(豊臣政権の主宰者)のもとで、秀長は補佐や代行(「名代」)を務めて政権運営に携わる執政(宰相)、家康は政権に従わない勢力に対して軍勢を率いて討伐を担当する軍事指揮官とみられていたことがわかる。
実際に、家康が秀吉から期待された役割は、豊臣政権への関東・奥羽統合のための外交・軍事における活動(諸大名・国衆の従属と紛争解決への尽力)である(柴:2024ほか)。しかし、家康は政権中枢で活動することはなく、運営には関わっていない。
一方、秀長は、羽柴家一門衆の筆頭に位置し、執政(以下、“一門筆頭の執政”とする)として秀吉の意向に従いつつ、一門衆(秀次・小吉秀勝)や重臣を率いて政権運営に携わり、豊臣政権と諸大名との関係維持に努めることを求められた。そのため、秀長は「指南」(政治的後見役)として、織田信雄、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、吉川広家、大友宗滴(義鎮、宗麟)・吉統(初名は義統。天正16年に改名)父子、島津義久・義弘兄弟、龍造寺政家、伊達政宗といった諸大名と上洛した際におこなった接待や日々の贈答を通じて、彼らとの交流を深めていった。
「公儀の事は宰相存じ候」という重み
こうした諸大名との交流は、豊臣政権を構成した羽柴家と諸大名との統制・従属関係の維持に「指南」として尽くす羽柴家一門衆に求められた「任務」であった。秀長は“一門筆頭の執政”として、この「任務」に従事した。また、その役割に基づいて、秀長には紛争解決も求められ、それを果たした。
天正14年4月、薩摩(鹿児島県)島津家との戦いで勢力を縮減していた豊後(大分県)大友家の家長・宗滴が上洛して、摂津大坂城にいた秀吉に臣従を示したうえで、豊臣政権の政治的後見と軍事的安全保障を求めた。その際には秀長も立ち会い、その後に自身の屋敷に招いた時、「公儀の事は宰相存じ候」(豊臣政権における事柄については、秀長が承知している)と述べ、豊臣政権内部で大友家のための進退保証に「指南」として奔走することを約束した(『大友家文書録』)。
「公儀の事は宰相存じ候」との発言は、豊臣政権における羽柴家一門衆の筆頭として秀吉の補佐・代行(「名代」)を務め、政権運営に携わる執政者(“一門筆頭の執政”)としての彼の立場と、その立場に応じた諸大名との関係維持に奔走する「指南」としての役割を端的に述べたものといえよう。
そして、政権のもとでの国内秩序を乱す存在には、秀吉とともに、場合によっては秀吉に代わり、豊臣軍(羽柴家だけでなく諸大名を従えた豊臣政権の軍勢)を率いる大将として軍事討伐に従事し、終戦・占領後には該当地域の戦後処理と統治のための体制を整備する、「仕置」の実務を指揮した。

